
これも、今となっては懐かしい光景ですねぇ~。
イベント列車でもなければ回送列車、あるいは試運転でもなく、れっきとした営業列車。もはや横須賀線の電車が浜松町の地上を走っていたということすら、忘れ去られようとしていますので、もう一回、 「横須賀線は昔、東京-品川間は地上を走っていたんだよ」 というのを呼び覚まさせます。
昨年から、東京-品川間には東海道線の列車の他に、宇都宮線や高崎線、さらには常磐線の列車がひっきりなしに行き交い、加えて常磐線の特急 「ひたち」 も殆ど終日、品川発着としているので、賑やかさに拍車がかかっているわけでありますが、国鉄時代、特に東海道本線が全線で電化が完成した昭和31年から東海道新幹線が開業する昭和39年の10年弱ほどでは無いのかなと思ったりします。今は通勤車両の天下ですが (もはや、E231系もE233系も “通勤形車両” とか “近郊形車両” とは括れませんものね) 、昭和30年代は優等列車の天下だったのであります。
名古屋、京都、大阪方面への特急、急行、準急と踵を接して次から次へと列車が来れば、その合間を縫って普通列車が走るという構図。土、日になれば伊豆方面の温泉準急も運転され、春夏秋冬それぞれの季節ごとに臨時列車も加わります。その臨時列車は修学旅行用列車も含みます。
普通列車は東海道線の列車だけでなく、横須賀線の列車も加わっているから、ダイヤを組む人はさぞかし苦労したことでしょうね。
東海道新幹線が開業して、東京発着の優等列車は新幹線にシフトする形で整理されましたが、その頃から神奈川県から東京都心への通勤客が増え始めていて、80系や70系では捌ききれなくなり、新幹線開業前に登場した113系が大量に増備されていました。しかし東海道線に関しては、80系がしぶとく残って昭和52年に113系に置き換わるまで普通列車運用があったし、運用の関係で153系も普通運用を持っていて (後にこの運用は185系に置き換わる) 、さらに国鉄末期には211系も割って入った関係から最後まで100%113系化は達成されませんでした。一方、横須賀線は113系化が進み、昭和43年7月には113系化を達成、70系は地方線区に転じていきました。しかし、車両は新しくなっても同一線路上を走ることは変わりなく、しかも時代の流れとともに、そういう通勤列車の比率が段々と高くなります。そうなると、列車の増発が難しくなり、輸送力増強の足かせにもなっていたので、東海道線と横須賀線を分離してその分、それぞれの列車を増発させようという計画が持ち上がりました。これがいわゆる 「SM分離」 というプロジェクトです。具体的な計画については、 「嗚呼・・国鉄時代」 のNo.185で僭越ながら詳細をお伝えしているのでここでは割愛しますが、プロジェクトの立ち上げから完成までかなりの時間を要したのは、当時を知る方には有名な話ですよね。
「横須賀線113系と浜松町駅の小便小僧」 との組み合わせは、昭和55年9月30日限りで見られなくなり、翌日から横須賀線の列車は地下に潜って東京駅でそのまま総武線に乗り入れるようになりました。因みに、横須賀線の列車が東海道線の線路を使っていた時代は、東海道線の列車は川崎駅は通過していましたとさ。
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は様