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通勤電車の 「新旧交代」 を感じさせる1枚です。
片や、103系に追われて撤退間近のモハ72系電車、そしてもう一方は投入されたばかりの103系1000番代。説明するまでもありませんが、ここは常磐線です。
いただいた写真の裏には、 「昭和46年4月 北千住にて」 と撮影日と撮影場所が書かれておりまして、歴史探究に際して、貴重な手掛かりとなります。
 
まだ 「快速線」 と呼ばれていない頃の常磐線は、終戦時には松戸までしか電化されてなく、混乱期を経て、昭和24年に取手まで電化が完成します。昭和30年代に入ると、松戸、柏、我孫子といった千葉県北部が都心のベッドタウンとなり、日を追うごとに爆発的な人口増となるのですが、それに対する対応が遅れたのが鉄道でした。車両は他線からのお下がりであるモハ72系ばかりが集められ、当時、大都市圏の通勤電車では唯一の10両編成を組成させて対応していましたが、4つ扉でも片開きドアでは 「焼け石に水」 状態で、全く効果は上がりません。
昭和40年代に入ると常磐線の混雑は熾烈を極めるようになり、もはや一刻の猶予も許されない状況までになりました。国鉄当局は、山手線や京浜東北線の新性能化を完了させたかったのですが、 「常磐線を何とかしないと大変な事になる」 ということになって、本来予定になかった103系を投入することになりました。
 
こうして昭和42年にエメラルドグリーンに塗られた新車の103系が直接常磐線に投入されるようになりますが、当然、山手線や京浜東北線の絡みもありますので、一気に置き換えるのではなく、段階的に置き換えていくフローとなりました。ですから103系投入と同時に旧形国電が消えたわけではないのです。さらに近い将来、営団地下鉄 (→東京メトロ) 千代田線との相互直通運転を視野に入れて、綾瀬-我孫子間の線増、いわゆる複々線化工事も始まり、地獄絵図とも言われた常磐線の混雑をどうにか解消させるべく、ソフトとハードの面から国鉄も必死の打開策を具体化していきました。昭和46年に待望の北千住-我孫子間の複々線化工事が完了、同時に営団千代田線との相互直通運転を開始しました。これを機に、常磐線の電車線は 「快速線」 と 「緩行線」 に分類されるようになり、千代田線によってダイレクトに都心に行けることから、常磐線の混雑は大幅に緩和されました。
 
混雑緩和対策と並行して、常磐線電車の完全新性能化を計画していた当局は、さらに常磐線の103系投入を継続させます。しかし、編成単位での新製配置は昭和42年の110両 (10両×11本) のみで、後々に投入されたのは中間車のみ。これに他線から転配された先頭車を組み込んで一著前の編成に仕立て上げました。
エメグリの103系が過半数を占め、昭和47年4月に首都圏重通勤路線の中では最後まで残っていたモハ72系が常磐線快速から撤退することになり、余剰車については廃車される車両の他に、比較的経年の浅い車両に付いては南武線、横浜線、鶴見線、青梅線、五日市線、仙石線、関西地区 (片町線だと思いますが) 、広島地区 (呉線、可部線など) などに転配されていきました。名古屋地区 (中央西線) もかな・・?
 
一方、103系1000番代ですが、言わずと知れた営団千代田線に乗り入れるための車両で昭和45年に第一陣が落成しています。営団車がサイリスタ・チョッパ制御を用いた車両 (6000系) を用意したので、国鉄も・・といきたいところだったのですが、その当時既に国鉄の財政状況は火の車で、また、サイリスタ・チョッパ制御を用いたとなると、製造コストが高くなることから開発及び導入を断念、抵抗制御として103系に組み込まれました。地下線に乗り入れることから、騒音防止の観点から自然通風式の抵抗器を用いることになります。しかし、これは大きな誤算で、夏場に非冷房時代の1000番代や1200番代、あるいは301系に乗ったことがある方なら解るかと思いますが、もの凄い暑いですよね。国鉄車を避けて営団車に乗る人もいたとか。そんな苦情が殺到したので、対策に乗り出すわけですが、折りしもサイリスタ・チョッパ制御を採用した201系の試作編成が落成して、試験を兼ねた営業運転を実施していました。この結果を基に、昭和56年から量産が開始されますが、103系1000番代の置き換え用という名目で201系をベースにした地下鉄乗り入れ用車両を製造することになりました。それが203系です。
 
画像は北千住で撮影したと記録されていますが、営団千代田線は荒川を渡ってすぐに地下に潜りますので、本来の使用目的からすれば、1000番代が北千住の地上駅に姿を見せることはありません。では何故・・?
これは1000番代の早期落成車が乗務員の習熟を兼ねて、いわゆる 「快速線」 に投入された時に撮影したものと思われます。後々、203系の投入で一部が快速線に転配された1000番代ですが、デビュー当時も快速線に投入されて、上野まで顔を出していたんですね。
 
そうそう、黎明期の常磐線電車は乗客の利便を図るために、一部が上野からさらに有楽町まで延長運転されていたことがありましたが、今再び、 「上野東京ライン」 で常磐線快速電車が品川まで足を運ぶようになりました。
 
103系1000番代車といい、快速線の東京駅乗り入れといい、まさに 「歴史は繰り返す」 という言葉の典型例ですね。
 
【画像提供】
は様
【参考文献】
鉄道ピクトリアル No.758
鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション③ 「東京圏国電輸送」 (いずれも電気車研究会社 刊)
鉄道ファン No.417.No.541 (いずれも交友社 刊)