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この電車の成功がなければ、101系や151系に代表される新性能電車の開発も、新幹線の登場もなかったかもしれません。今の日本は電車大国と言われていますが、その礎になったのは他ならぬこの電車があってのこと。
 
80系電車は、機関車に牽引された客車列車が当たり前だった日本の鉄道輸送に風穴を開けて、長編成で長距離を実現し、斬新なボディカラーと相まって、電車の地位を確固たるものにした、まさに 「鉄道車両界の革命戦士」 だったりするわけであります。機関車牽引の客車列車が徳川幕府だとすれば、80系や70系は西郷隆盛を始めとする 「維新三傑」 に該当するのでしょう。
湘南地方特産のミカンの実と葉っぱをイメージしたと言われる 「湘南色」 の元祖はこの電車であるというのは誰もが知っていること。戦後日本の復興のシンボルとなる明るい電車が動き出したのは昭和25年のことです。
 
ただ、残念なことに、私は現役時代の80系を見たことがありません。だから私にとって 「湘南電車」 といえば、111系とか113系になるわけですが、一度、80系の勇姿も見てみたかったなって気がします。
 
画像はおそらく飯田線ではないかと思われます。
東海道本線を皮切りに、山陽本線、中央本線名古屋口 (中央西線) 、東北本線、高崎線、上越線、信越本線など、日本の主要電化幹線で普通列車から優等列車まで幅広い活躍をしていた80系も、昭和30年代になると、次世代電車となる新性能電車の登場によって、優等列車からの運用は殆ど無くなり、支線や本線ローカルなどでの運用に転じるようになります。そして昭和40年代後半になると80系自身の老朽化も目立ち始め、昭和50年代に入って本格的な廃車が始まります。昭和52年4月現在では新ナカ、長モト、長キマ (※1) 、静トヨ、静シス、名カキ、名シン、岡オカ、広ヒロ、広セキの各区所に640両弱が在籍していた80系ですが、総数が652両ということを考えると、昭和50年代でも殆ど残存していたことになります。また同時期の旧形国電が900両 (※2) 余りなので、旧国の7割が80系だったりします。しかし、そこから年を追うごとにその両数を減らし、本線系統で最後まで運用していた中央本線名古屋口が昭和54年度末で運用から撤退、残るは飯田線になります。
 
飯田線といえば、戦前省電の大スター、 “流電” ことモハ52系の終の棲家として有名ですが。モハ52の引退と引き換えに80系が本格的に飯田線に入線したので、モハ52との共演は厳密には実現していません。しかし飯田線には以前から準急 (→急行)  「伊那」 や 「天竜」 が80系で運用されていましたので、組み合わせはあったはずなんですけど、飯田線における80系と52系のツーショットって、各媒体では発表されていないんですよね (見たことがないだけかもしれませんが) 。
 
飯田線での運用は昭和58年まで続き、119系の登場によって他の旧形国電と共に運用を外れ、そのまま引退となりました。
現在は幸運なことに、クハ86001とモハ80001の2両が大阪の交通科学博物館に保存展示されており、来春開業予定の 「京都鉄道博物館」 にも引き継がれることになっています。80系の保存は大変意義があるのは間違いないのですが、同時におそらく88.46%の方が 「前面2枚窓のクハだったらな・・・」 と思っている事でしょう。そうなんです、残念なことに、80系の象徴でもある前面2枚窓のクハは1両の保存もありません。飯田線撤退時に1両くらい残すかなと思っていたのですが、期待空しく、飯田線で最後まで運用に就いていた車両は全部粉々にしてしまいました。その雰囲気を味わえるのが東海道本線の藤沢駅にある売店だけとは、寂しいの一言に尽きますね。
 
※1:松本運転所北松本支所の1両は、おそらくクモユニ81 (→クモニ83 100番代) だと
   思われます。
※2:旧形国電の総数にはいわゆる 「事業用車」 も含まれていると思われます。クモニ13とか
   クモヤ90とか。
   モハ72の足回りを使ったクモユニ74やクモニ83も旧形国電に括られているのかな?
 
【画像提供】
ジ写真部様
【参考文献】
鉄道ピクトリアル No.681、743 (電気車研究会社 刊)
季刊 j train Vol.19 (イカロス出版社 刊)
日本鉄道旅行歴史地図帳 第6号、第7号 (新潮社 刊)