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昭和50年12月 (本当の最後は翌年3月)、最後のSLが北海道で有終の美を迎えた後、鉄道ファンがカメラを向けたのはブルートレインとエル特急でした。
エル特急は、昭和47年に登場したのですが、その時は 「特急の威厳を落とした」 とされて見向きもされなかったのですが、 前述のSLブーム収束後、俄に人気が高まり始め、昭和53年10月に全国40種の電車特急にイラスト入りヘッドマークが採用されると、その人気が一気に沸騰し大ブレイクを果たすことになるのです。
 
以前にも雑駁ながら説明はしたことがありますが、 「エル特急」 とは、いわば 「大衆特急」 に愛称を付けたようなもので、赤字国鉄が何とか増収をと考えた苦肉の策でした。
それまでの特急は文字通り、 「特別急行列車」 で、特に特急が登場した明治末期から昭和30年代くらいにかけては、セレブなど富裕層しか乗ることが出来ない高飛車な列車で、一般庶民は急行もしくは準急に乗るという図式が暗黙の了解の如く成り立っており、急行ですら贅沢と言われていました。しかし、昭和39年の新幹線建設に際して、国鉄は試算の誤りから膨大な借金を背負うこととなり、その赤字幅は年を重ねる毎に増していく一方で、昭和40年代の後半にはどうにもならない状況までになりました。
この赤字をどうにか解消すべく、国鉄はありとあらゆる増収策を講じることになるのですが、その一環として 「特急列車の大衆化」 というのがありました。つまり、それまで富裕層がターゲットだった特急の乗車層を広げようというのが狙いで、特急券と乗車券だけで乗れる列車を設定。この大衆特急に 「エル特急」 という愛称を付けました。それが昭和47年のことです。
 
エル特急の “L” は、諸説あるのですが、私が最初に知ったのは
Lovely
 
Large
 
Light
の頭文字を取ったというのが一般的のようです。
それから、エル特急には3つのキーワードがあって、これに該当すればエル特急として見なされることになっていました。それは・・・
数自慢
 
カッキリ発車
 
自由席
「数自慢」 というのは、 「Large」 にも通じるのですが、とにかく運転本数が多いことが条件。基本的には6往復以上が条件とされていました。中には人気に肖ろうと何とかエル特急にしたくて、無理矢理ねじ込んだ例もありますけど、大半のエル特急は6往復以上運転されていました。
 
「カッキリ発車」 というのは、 「いつでも乗れる」 、つまり 「Light」 に通じるものがありますが、決まった時間に発車する判り易いダイヤ設定にしてあるのがエル特急の大きな特徴です。数が多かった上野発着の列車はダイヤ作成に相当苦労したようで、毎時00分は 「ひばり」 「ひたち」 が優先的に使用し、東北特急の老舗的存在である 「はつかり」 ですら毎時33分発、上越線の雄 「とき」 は毎時19分、信越線の代表的な列車である 「あさま」 は毎時46分と、細かな発車時分で踵を接していました。これだけでなく、エル特急じゃない一般の特急や急行、さらには普通列車も走りますので、上野-日暮里間はそりゃあもう、大変な騒ぎでしたよ。
 
そして 「自由席」 ですが、今では別に何も珍しいことはない自由席。しかし、当時の特急としてはかなり大胆な試みだったんですね。というのも、特急は基本的に全席指定席だったので、乗車券+特急券に加えて、指定券も必要だったことから、それだけお金がかかるということで、一般庶民にはかなり敷居の高い列車であり、結果的に指定席はあるけど、基本的には自由席がメインの急行列車に乗るというのは自然の理だったのかもしれません。
 
こうして、国鉄時代はアイドルだったエル特急も、ダイヤ改正の度に急行の格上げ等で大幅に増え過ぎて早朝から深夜まで運転するような状況になり、オール指定席がいつの間にかオール自由席に成り下がったり、果ては各駅停車並みにチンタラチンタラ走る特急も現れたりして、気がつけば 「特別急行」 というプライドもヘッタクレも無いような列車までに墜ちました。そして民営化後は徐々にその存在感は薄れ、JR各社で明確な定義の食い違いが出てきたことから、JR東日本では平成14年12月のダイヤ改正を機に、 「エル特急」 の制度を廃止、本数が多くても少なくても一括りに特急となりました。続いて平成20年にはJR九州が、平成22年にはJR西日本が、そして平成23年にはJR四国がエル特急の制度を廃止して特急に一本化、現在ではJR東海とJR北海道がエル特急の呼称を使い続けています。
 
さて、話は国鉄時代に戻って、そのエル特急全盛時代の横綱といえば、西日本では 「雷鳥」 「有明」 、そして東日本では 「とき」 と画像の 「ひばり」 が挙げられますが、これに異を唱えるものはいないでしょう。
「ひばり」 は単にエル特急の代表格という位置づけだけでなく、本数的に東北特急の代表格としての位置付けも兼務していた列車でした。東北特急といえば 「はつかり」 を挙げる方も多いかと思いますが、その辺は賛否が分かれそうですね。
昭和36年に不定期の気動車特急としてデビューした 「ひばり」 ですが、翌年には定期列車に昇格、昭和40年には電車化されて、ここから本数が増え出し始めます。エル特急制定前の昭和45年の段階で早くも7往復、エル特急が制定された昭和47年10月には実に11往復が運転されるようになりました。最盛期には15往復が上野-仙台間を走り抜けました。これだけの数が行き交っていたので、当然のことながら、東北新幹線の列車名の候補にもなるのですが、ご存じのように速達列車は 「やまびこ」 、各駅停車の列車には 「あおば」 が採用されることになり、上越新幹線が暫定開通した昭和57年11月で姿を消しました。以来、 「ひばり」 の列車名は使用されたことがありません。まさに 「特急列車の永久欠番」 といった感じでしょうか。
 
私はこの時期、上野駅とかには行ったことが無いのですが、当時の上野発着の特急はアイドルを越えたスターでした。
 
【画像提供】
は様
【参考文献】
国鉄監修 交通公社の時刻表 1980年12月号 (日本交通公社 刊)
日本鉄道旅行歴史地図帳 第2号 「東北」 (新潮社 刊)
ウィキペディア (エル特急)