
昨今、大宮にある鉄道博物館に収蔵されて再び注目を集めるようになったEF55 1。 「ムーミン」 という愛称を得て人気もピカ一だったのですが、画像は今から40年前の若干哀れな姿。よく見るとナンバーも外されていますしね。
EF55形電気機関車は昭和11年に登場しました。当時、世界的に大流行した流線形を採用し、モハ52系電車、C55形蒸気機関車とともに 「戦前日本の三大流線形車両」 ということで一時代を築いた車両であります。
新製当時は沼津機関区に配属されて、特急 「富士」 などを牽引しましたが、空力重視のボディとスカートなどのエアロパーツが災いし、さらにメインの運転台は片方にしかなく、起終点では転車台による方向転換を余儀なくされることから、現場では敬遠され、製造も僅か3両となります。
戦後は若いEF58などの台頭によって、新製後20年も満たないのに、東海道という檜舞台から外れ、高崎第二機関区に配属され、主に高崎線や上越線が活躍場所となりました。しかし、高崎線での活躍も長くは続かず、昭和33年には休車扱い、そして昭和39年には車籍が抹消されて廃車同然となりますが、何故か解体されず、高崎第二機関区の片隅で眠る日々が続きました。EF55は3両しか製造されなかった機関車だけにあって、その稀少性が解体を免れた要因なのかは定かではないのですが (2号機と3号機は昭和33年に廃車解体) 、1号機はその後もずっと、高崎で放置プレイ状態で保管されていました。
昭和53年に準鉄道記念物に指定されるのですが、放置プレイはその後も続き、朽ち果てる寸前で高崎第二機関区の開設40周年を記念したイベントで、その目玉にとEF55をレストアすることが決まり、その時は外観の再塗装だけで、いわゆる 「張りぼて」 状態でのレストアに留まったのですが、これを見たマニアから動態保存を望む声が日増しに高まり、その熱意に絆されたのか、高崎鉄道管理局も重い腰を上げ、ついに昭和61年6月、車籍が復活するまでに復元されました。
以来、高崎鉄道管理局 (→JR東日本高崎支社) の虎の子として、イベント列車に引っ張りだこの状態が続くのですが、民営化後の高崎支社は、電機よりも蒸機をメインに取り扱うようになり、D51やC61を主体にスケジュールを組むようになり、オフシーズンには新潟からC57を、たまにではありますが、秩父鉄道からC58を、真岡鐵道からC12を借りてイベント列車を繕うようになって、EF55の存在は次第に忘れ去られるようになりました。まぁ、製造後60年も70年も経てば、彼方此方にガタが来るのは致し方がないことだし、メンテナンスも容易ではないことは百も千も承知なんですけど、 「何でELよりもSLなの?」 という疑念は今も残っています。
「鉄博保管展示」 という安住の地を得て、 “ムーミン” は今日も子供たちの相手をしています・・・。
【画像提供】
岩堀春夫先生
【参考文献】
鉄道ファン No.306 (交友社 刊)
ウィキペディア (国鉄EF55形電気機関車)