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先日、20系客車の分割編成に関する質問が寄せられました。
一応、説明はしたのですが、私自身、いまいち心許ない部分がありますので、そんな時に良い感じの画像をお譲り下さった方が居られましたので、今回の 「嗚呼・・国鉄時代」 の題材にするとともに、あらためて20系の分割列車について考察してみたいと思います。
 
我々の世代ですら、もはやレジェンドになりつつある20系客車。ましてや簡易電源車が活躍していた時代は生まれているかどうかというギリギリの時代。よしんば生まれていたとしても、物心つく頃には14系や24系といった次世代客車が台頭している時期になりますので、全盛期の20系はやっぱり伝説でしかないような気がします。
 
今更説明するまでもありませんが、20系客車は昭和33年に登場した初のブルートレイン用客車です。
全車冷暖房完備、集中電源方式、個室寝台などそれまでの客車の概念を根本から覆す数々の機能やホスピタリティはまさに 「客車新時代」 を告げる一大エポックメーキングな車両だったのです。
20系は 「あさかぜ」 に始まり、以降、 「さくら」 「はやぶさ」 と、東京から九州方面に向かう夜行特急が次々と20系化されまして、いずれも高評でした。そんな中、東京-熊本間を走っていた不定期特急の 「みずほ」 が昭和38年に定期列車に昇格し、同時に20系化され、さらにそれまでの熊本行きに加えて、日豊本線の大分まで足を延ばすことになりました。しかしここで問題が発生します。
前述のように、20系は編成の一端に電源車を連結して、各車両に電気や食堂車などの調理用電源、冷暖房などの供給サービスを行う集中電源方式を採用していましたが、途中で切り離された方の編成は電源車が無いため、電源サービスを受けることが出来ません。つまり、 「みずほ」 の場合、大分編成には電源車が無いから電気も点かなければ、冷暖房も効かなくなります。 「じゃあ、附属編成にも電源車を連結しておけば良いじゃん」 という声も聞かれそうですが、機関車の牽引定数や編成全体の重量などを鑑みた時、とてもじゃないけど得策とは言えません。そこで、附属編成には行程の途中から電源車を連結して、附属編成の単独運転を可能にさせる方式が採られました。国鉄としてはあくまでも 「急場凌ぎ」 という意味合いもあり、またこの当時は新幹線建設に全神経を注いでいたことから、新製は見送られ、余剰となっていた旧形客車を改造して20系に組み込むこととしました。これが簡易電源車のマヤ20形です。
“簡易” というだけあって、搭載されている発電機関 (エンジン) は、本務電源車であるマニ20やカニ21、カニ22のような大出力のものを搭載しているわけではなく、必要最小限の電力確保のためだけの機関を設置していました。ジャンルは違いますが、携帯電話のバッテリーが切れた時の予備バッテリーと思えばいいのかなって気がします。
 
マヤ20は昭和38年に2両がまず製造 (改造) されました。予備車無しでしたから、故障した時はキツかったでしょうね。
オハシ30 4   →マヤ20 1
オハシ30 2005→マヤ20 2
配置はいずれも門司客貨車区 (門モシ~現在のJR貨物門司機関区) でした。
昭和39年10月に 「みずほ」 の大分編成が独立して、 「富士」 となりまして、東京から電源車も連結されての運行となったことから、マヤ20は一旦、御役御免となり、1は休車扱い、2は万が一の時のための予備電源車として待機措置が取られました。
そしてその翌年、 「さくら」 の博多回転車 (つまり、博多で切り離された附属編成) が佐世保まで延長運転されることになった他、同時期にデビューした 「あかつき」 も鳥栖で切り離して長崎と西鹿児島 (→鹿児島中央) までの運転となったことから、再びマヤ20の出番となりました。2両では足りないことから追加改造されますが、種車はオハシ30ではなく、スハ32が種車となりました (もっとも、オハシ30も出自はスハ32ですけどね) 。
スハ32 278→マヤ20 3
さらに昭和43年10月の 「よん・さん・とう」 白紙改正では、 「はやぶさ」 の博多回転車が長崎まで延長運転されることになり、さらに3両増やしました。
スハ32 612→マヤ20 10
スハ32 787→マヤ20 11
スハ32 197→マヤ20 12
因みに、6両は全て小倉工場での改造になります。
前述のように、最初の2両は門司に配置されましたが、 「さくら」 「あかつき」 の関係で1が長崎客貨車区 (門サキ) に、2が早岐客貨車区 (門ハイ) にそれぞれ転属しまして、後に追加改造された3と10、11が早岐、12が長崎にそれぞれ配置されましたが、 昭和47年3月のダイヤ改正で6両全車が長崎に集結する形となり、ここが終の棲家となります。ただ、この改正では 「さくら」 が分散電源方式の14系客車に置き変わっていることから、 「さくら」 からは手を引き、 「はやぶさ」 と 「あかつき」 を受け持つことになるのですが、必然的に余剰となることから、昭和49年末までにまず3両 (2、3、10) が廃車、そして昭和50年3月のダイヤ改正で 「はやぶさ」 と 「あかつき」 は揃って14系や24系に置き変わり、マヤ20の役目はここでピリオド。異色の簡易電源車は意外にも長命でした。
 
こうやって見てみると、マヤ20は九州島内での活躍に終始したわけですが、僅かながら東京に顔を出したことがあります。
時は昭和38年、あの鶴見事故が事の発端で、この影響で東京まで行けなくなった 「あさかぜ」 と 「みずほ」 は、急遽、沼津発の臨時列車として再び九州へ向かうのですが、両列車とも遅れを取り戻すべく走っていたところ、 「みずほ」 が山陽本線厚東駅の前で非常停止。点検後、出発しようとしたところへ後続の 「あさかぜ」 がお釜を掘るという事故が発生します。これで 「あさかぜ」 の車両も 「みずほ」 の車両も使えなくなり、 「みずほ」 は一時期的に在来編成 (おそらく、運行開始時の10系客車による編成と判断します) で運行、 「あさかぜ」 は、事故を起こした2編成から使える車両を選んで運行する措置が採られましたが、この編成にマヤ20を充当しました。雑誌上でも取り上げられていますが、マヤ20の臨時 「あさかぜ」 を撮影した方は超×10くらい、ラッキーな方だと思います。
 
20系の分割列車について質問を寄越された方、こんな感じでよろしいですか・・・?
 
【画像提供】
タ様
【参考文献】
鉄道ピクトリアル No.763 (電気車研究会社 刊)
鉄道ファン No.391 (交友社 刊)
ウィキペディア (国鉄20系客車、早岐客貨車区、門司機関区、長崎客貨車区)