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JR東日本から113系が撤退したのが3年前。 「そんなに前だっけ?」 と思うほど、113系はつい最近まで走っていたような、そんな錯覚を覚える昨今です。最後まで運用を続けていたのが房総地区で、画像の1000番代 (通称:1000’ 番代) の他に、東海道線から転じてきた地上用の車両 (殆どが2000番代でしたけど) も加わっていました。
 
この113系1000’ 番代は、あらゆる意味で私にとってカルチャーショック的な電車だったのは以前にもお話ししたかと思いますが、あらためて説明しますと、私が鉄道に興味を持つようになった幼少の頃、113系及び総武線には以下の先入観がありました。
 
① 113系のスカ色は存在してるのは知っていたが、いわゆる “デカ目” ヘッドライトで、
  タイフォンは前照灯の隣に据え付けられているのが113系だと思っていた。
 
② 113系のスカ色は横須賀線でしか見る事が出来ないと思っていた。
 
③ 総武線は “きいろいでんしゃ” しか走っていないと思っていた。
 
④ 故に、総武線には各駅停車しかないと思っていた。
 
あれは幼稚園の頃だったと思いますが、身内の集まりで錦糸町のロッテ会館 (現、ロッテシティ) に行った時のことです。
新小岩まで出て、そこから総武線に乗って錦糸町まで行くわけですが、オカンが 「今日は快速で行くよ」 と言うのです。えっ!? 総武線で快速・・? 東西線の快速なら知っているけど・・。
半信半疑で快速のホームに向かうと、この113系1000’ 番代が姿を見せたのです。そして幼き私はオカンにこう言いました。
 
「これは総武線じゃないっ! 横須賀線だっ!」
 
しかも、前面が “デカ目” じゃないし、タイフォンも変な所に付けられているので、余計に 「この電車は一体、何なんだ・・・?」 と殆ど半狂乱に近い驚愕ぶりだったのは何となく覚えています。
 
113系1000番台は昭和44年に登場しましたが、その3年後の昭和47年に総武本線は地下線で東京駅へ至るルートが開通し、その際に快速電車がお目見えしました。
この総武本線の東京駅ルートは、その特性上、勾配区間とカーブが多く、信号が見えにくくなることから、当時の営団地下鉄千代田線に乗り入れる常磐線緩行で採用されて一定の効果を得ていたATCをこの総武本線東京ルートでも採用することになり、同時に冷房を取り付けるなどのマイナーチェンジを実施した車両が製作されまして、このグループは俗に “1000’ 番代” と呼ばれるようになりました。なお、初期形の1000番代は、1000’ 番代登場以降は地上用に回されることになり、房総東線 (→外房線) や房総西線 (→内房線) 、あるいは横須賀線でそのまま使われるようになります。 
 
1000’ 番代は、いくつかの改良部分があり、殆どフルモデルチェンジ、別形式といっても過言ではないのですが、115系1000番代の項でも申しましたように、当時の労使関係や会計監査のツッコミから逃れるために、敢えて113系に編入したのでしょう。
 
前面形状は、前照灯を白熱灯ではなくシールドビームに変更したこと、前照灯の横に並んで取り付けられていたタイフォンを尾灯のやや下に取り付けられたことで、従来の近郊形電車のイメージを一新しました。タイフォンが下部に取り付けられたのは、ATC機器の関連によるもので、どことなく711系に近い顔立ちになりました。
 
側面の窓は隙間風を防止する観点と工作の簡略化を兼ねてユニット窓を採用、昭和45年に103系の試作冷房車で初採用されたユニット窓ですが、近郊形電車では113系1000’ 番代が初めて採用しました。
前述のように、国鉄における通勤冷房の嚆矢は昭和45年に登場した103系の試作冷房車でありますが、大阪鉄道管理局の営業サイドから 「並行する私鉄には通勤車両の冷房化が進んでいるのに対し、国鉄は後れを取っている。是非、ウチにも冷房車を」 ということで、同じ年に113系8両に103系と同じ仕様のクーラーを取り付けて試行したというのは有名な話。ただ、山手線用が新製車だったのに対し、大鉄局向けの113系は非冷房車の在来車に後付けすることで対処し、ここでも東京と大阪の差別化が浮き彫りになりました。
 
こうして比較検討した結果、通勤形や近郊形にはAU75を採用することになり、その第一弾として、中央線特別快速用に改造ながら101系と新製の113系1000’ 番代に冷房車がお目見えしました。ただ、113系の場合、外房線と内房線が電化開業したのが昭和47年7月だったため、冷房車は房総ローカルに専門的に使われ、総武快速用はいつでも冷房が取り付けられるように準備だけしてある仕様になり、冷房車の投入は見送られました。115系1000番代の項でも申しましたように、これを 「冷房準備車」 と呼びます。113系で冷房準備車があるのは1000’ 番代のみです。因みに103系の新製冷房車と115系300番代は昭和48年に、113系700番代と113系0番台の新製冷房車は昭和49年にそれぞれ登場し、在来車の冷房改造も徐々に進められることになります。
 
当時の総武線快速は11両編成でグリーン車が連結されておらず、 クハ111-モハ113-モハ112-サハ111 (もしくはクハ111) -モハ113-モハ112-クハ111-クハ111-モハ113-モハ112-クハ111 という編成内容でした。昭和51年には東京-品川間の地下線が開業し、総武線快速は品川まで延長運転されることになりましたが、この時13両編成が登場しています。記憶違いなら訂正しますが、13両編成の場合は確か、7+6両 (クハ111-モハ113-モハ112-サハ111 (もしくはクハ111) -モハ113-モハ112-クハ111-クハ111-モハ113-モハ112-モハ113-モハ112-クハ111) だったと記憶しています。ですから、朝夕のラッシュ時は7+6で、日中は7+4で運転していたのだと考えられます。7両での運転は無かったのではないでしょうか。
 
昭和42年の計画決定以来、懸案だった横須賀線と東海道線の分離、そして横須賀線と総武線の直通運転が昭和55年にようやく実現することになり、同時に総武線の津田沼-千葉間の複々線工事も完了し、総武本線は昭和47年以来の一大転機を迎えます。
横須賀線への直通運転を機に、同線と編成を揃えるために総武線快速に初めてグリーン車が連結され、皆さんもご存じの編成に変更されます (クハ111-モハ113-モハ112-サハ111 (もしくはクハ111) -モハ113-モハ112-サロ (110、111、113) -サロ (110、111、113) -モハ113-モハ112-クハ111-クハ111-モハ113-モハ112-クハ111)
総武線用にサロ110の1200番代が新製されたほか、京阪神快速のグリーン車連結廃止に伴って、老朽廃車のサロ112やサロ110 (試作ステンレス車も含む) を除くグリーン車が首都圏に転属します。この中には定員48名と不評だったサロ113も含まれており、まさに “里帰り” になるわけですが、定員の少なさから、基本的にはサロ110-1200とペアで使用されました。
 
横須賀線との相互直通運転が実現した55.10以降は、大きな動きもなく、民営化になっても113系の天下は続きますが、平成6年に後継車両となるE217系が登場します。通勤用209系の近郊形バージョンとして位置付けられる車両で、近郊形としては初めて4扉となるなど、後のE231系やE233系の基礎を築いた車両です。
E217系の製造が本格的になると、総武線快速における113系の居場所が徐々に失われていき、ついに平成11年、置き換えが完了し、総武線快速と横須賀線の113系は終焉を告げました。
113系の引退と言えば、置き換えの1ヶ月前に横須賀線開業111周年を記念して、113系を使ったメモリアル列車の運転も行われましたよね (大船-久里浜間) 。
平成11年11月11日クハ111-1111が先頭の111編成を使用、大船駅を11時11分に出発し、13時11分 (午後1時11分) に大船に戻るという “1” づくしの列車でした。列車番号は往路 (下り) が9777M、復路 (上り) が9770Mだったようですが、1111Sとかに出来なかったんでしょうかねぇ~? あと車両もモハ111-1やモハ111-11、あるいはクハ111-1やクハ111-11、クハ111-111もあれば良かったのにね (あとサロ111-1とかサロ111-11も) 。サロのグリーン帯が復活したのも大きな話題になりました。
 
初めて見た時は、 「こんなの総武線じゃない」 とか 「これは113系じゃない」 なんて毛嫌いしていた113系1000’番台ですが (勿論、その頃は113系という呼び名があるのは知る由もありませんが) 、時が経つにつれて好きな車両になり、引退する時はさすがに寂しかったですね。今はJR西日本に少しだけ残されている113系ですが、またMT54の唸り声を聴きたくなりました。
 
【画像提供】
い様
【参考文献】
キャンブックス 「111・113系物語」 (JTBパブリッシング社 刊)
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