イメージ 1
 
関西の国鉄フリークには堪らないDD54形ディーゼル機関車が牽く客車列車です。
この機関車、関東地区では見られない機関車で、私の中では 「西ドイツ製のエンジンを積んだ機関車」 というイメージしかありません。
 
DD54は昭和41年に登場しましたが、既に幹線・亜幹線用にはDD51が勢力を伸ばしており、着実に動力近代化が推進されていました。DD51の難点はエンジンを2基積んでいたことで、製造コストもかかり、保守も厳しさを増すことから、欧米の間で2000馬力の大出力エンジンを1基積んだ機関車を開発して実用化を図る動きがあり、日本もその動向を注視していました。しかし当時の日本の技術では2000馬力クラスのエンジンを開発することと、それを伝達する液体変速機を開発するのは困難であったため、西ドイツの技術を使って、機関車を製造することとしました。
DD51が登場した1962年に、三菱重工で試作機関車DD91が製造され、各種試験を経て、その結果をフィードバックした量産機がDD54ということになります。
 
エンジンは西ドイツのマイバッハ社製MD870型エンジンを三菱重工がライセンスを取得して生産したもので、液体変速機はやはり西ドイツ製のメキドロ社製のK184U型を三菱重工がライセンスを所得して生産したものを使っています。
DD51が車体の中央に運転台を配した凸型であるのに対し、DD54は量産機としてはDF50に次ぐ箱形を採用して、車体もヨーロッパを意識した当時としてはかなりハイセンスなデザインとなっています。時代は違いますがまさに 「鉄道界の琴欧洲」 といったところでしょうか。
 
先行試作機と量産機とで車体形状が大きく異なり、一番の識別点は前面形状かと思われます。試作機3両の前照灯は窓の上部に左右1基ずつ取り付けられていましたが、量産機となる4号機以降は画像の車両のように前照灯は窓下に尾灯とセットで1基ずつ配置されました。
 
DD54は福知山機関区と米子機関区に配属され、福知山線や播但線、山陰本線などで活躍し、C54やC57、C58などの中量級機関車を駆逐してこのエリアの無煙化に貢献しました。しかし、当初からエンジンブローや推進軸の破損など機関車の故障が後を絶たず、期待されたほどの活躍はされずにいまして、1978年までに全機運用から離脱し、廃車となりました。
“悲運の機関車” と呼ばれることの多いDD54ですが、一方で昭和43年にはお召し列車を牽引したり、昭和47年から数年間、寝台特急 「出雲」 を牽引したことなど、華々しい活躍も随所で見られました。
 
幸か不幸か1両 (33号機) だけが生き延びて、現在は大阪の交通科学博物館に保存されていますが、私は何度も交通科学館に足を運んでおきながら、この機関車は1度も拝んだことがありません。
 
さて、DD54が客車列車を牽いて駅に進入しようとしているこの画像、一体、どこの駅だか判りますか?
実は福知山線の宝塚駅構内です。今から37年前の宝塚ということになります。今でこそ福知山線は 「JR宝塚線」 と呼ばれてJR西日本アーバンネットワークの一翼を担っていますが、昭和50年当時の福知山線はまだ非電化で、優等列車は特急 「まつかぜ」 と急行 「だいせん」 を筆頭に、あとはディーゼル機関車が牽く客車列車や気動車がのんびりと走っていたローカル線でした。福知山線の電化完成は昭和56年のことです。
 
関東地区には投入されず、縁のない機関車ではありましたが、何故かNゲージで購入したことがあり、
実物とは違い故障もなく、客車牽引や貨車牽引に活躍していました。
今度大阪に行くことがあったら、DD54を拝みに行きましょう。
 
【画像提供】
い様
【参考文献】
ウィキペディア