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10月23日は石野真子さんのコンサートが堺市の北野田という所でありましたが、奇しくも同日、JR吹田工場でも一般公開のイベントがありましたので、こんなチャンスは滅多にないとばかりに、お邪魔することにしました。車両基地や車両工場の一般公開は別に珍しいことではないのですが、関東の人間が関西のイベントに行くというのはなかなか機会がないということで、事前にJR西日本に問い合わせたりして確認作業を行っていました。ほぼ同じ敷地内にあるJR貨物の吹田機関区でもイベントがないかなと期待していたのですが、それは残念ながら無かったようです。
 
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下車駅は吹田駅で、そこから歩いて5分少々の場所に吹田工場の正面入口があります。
大阪から吹田まで電車で移動した時、東淀川駅かどっかでカメラ小僧が押し寄せていましたが、狙いはおそらく画像の列車ではないかと思われます。
 
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ついでにこれも?
これも後継車両が決まったようで、行く末も見えてきたような気がします。
 
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これは吹田市のマスコット「すいたん」だそうです。すいたんといえば “すいとん” が食いたくなった・・。
この手のキャラクターにはあまり興味を示さないんですが、何故か握手をしてしまいました。若くて可愛い女の子なら良いんですが、大概は若い兄ちゃんが〈着ぐるみの中に)入っていることが多いですね。
 
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私的に今回の吹田工場訪問における最大の目的がこれ。
489系でも583系でも225系でもなくこれ。
戦前の関西国鉄の大スター、 “流電” ことモハ52系電車、その1号車です。
モハ52は昭和11年に登場し、大阪-神戸間の急行電車として颯爽とデビューしました。今の新快速の先祖にあたります。そもそも京都-大阪-神戸間は並走する私鉄〈京阪、阪神、阪急)との熾烈な競走があり、国鉄〈鉄道省)は常に後れを取っていました。このモハ52の投入で本格的に競走に加わり、戦後は80系に取って代わり、さらには新快速へと発展していくのであります。
昭和11年当時、世界的に流線型が大流行し、鉄道界においてもC53やC55、あるいは名鉄3400形などが流線形を採り入れました。
 
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流電は室内見学も出来ました。
話の種にと座席にも腰掛けてみました。
当時としては驚異的なスピードだったんでしょうね。C51の牽引する超特急「燕」とどっちが速かったんだろう・・?
吹田に保存されているのは窓が小さい〈狭窓)の1次車ですが、2次車以降は窓が大きくなりました(広窓車)。その2次車にあたる004というのが今度、JR東海の博物館(リニア・鉄道館~夢と想い出のミュージアム)で展示されることになっています。
 
今日はここまでにしましょう。