「御霊だよ。」
アーメン。
本当にその通り。
ミニストリーづけの3日間。
年末からの聖霊の流れが、一気に表に明らかにされた感じ。
1日目。
日吉PPH。久しぶりだったこともあるが、何よりもみのが来るというので、私にとって特別に霊的に気合いが入った。
「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。(ガラテヤ5:16-17)」
自分自身、肉の欲の部分では弱いということを十分自覚している。
だからこそ、みのと付き合うようになって、より主の助けを求めるようになったし、聖霊の満たしを求めるようになった。
それだけでなく、私が聖霊に満たされている様子を見て欲しかったし、彼に体験して欲しかった。
別に彼が、引こうが、躓こうが、そんなの知らない。
だって、主は100%善い方なんですもん。
主が定めるみこころの人がみのであるならば、必ず主の元に帰る。
もし、みこころの人でないとしても、導かれている魂であることには間違いない。
そんな感じでいたら、本当に聖霊が吹き荒れて、ありえないくらいに満たされてしまった。
祈り叫び、踊り、異言を語る私を彼はどのように見たのだろうか…?
彼の深層心理は分からない…が、これが本当の私(主にある私)であることを見せられて嬉しかった。
しかしなぁ~本当、ありえないほど聖霊が吹いていた。超~楽しい。
主は素晴らしい。
やっぱ、日吉は特別だと思った。
2日目。
池ゴス。朝、Tちゃんに会って、なんだかイライラしているのが伝わってきた。
おまけに私に愚痴を言い始め、「は!?」っていう感じだった。
これが悪いところだ。9/10満足なことがあっても、1/10納得がいかないことがあったら、前の9/10までも喜びが奪われてしまう。それって、サタンの思う壷じゃないの!?っていつも思う。
納得がいかない部分を目を潰れなんて言っているんじゃない。それが原因で全ての喜びが奪われてしまうことが問題なんじゃないのか!?
なんで私に言うか!?昨日、満たされて喜びでいっぱいだったのに、イラっとした。
12月に2011年の方針が話されて、Tちゃんがシンガーズに入るという私にとって訳がわからない予定を聞かされて…平安がなくて。そのビジョンを想像しても想像できないし、納得がいかなかった。
ひとつのパーツがあるべき場所になければ、他のパーツにも影響がでるのだ。
はっきり言って、シンガーズなんて音楽に召しを感じる人がやればいいわけで、(音楽的な向上も目指す池ゴスは特に)TちゃんにはTちゃんにしかできない重要な役割があるのだ。
Tちゃんの存在は大きい。ゴスペルにおいても、教会においても。
こんなにも牧師から信頼を置かれていて、ゴスペラーからも慕われている人は他にはいない。
ゴスペルクワイヤはずっと、ゴスペル界と教会とのつながりを求めてきたし、双方の意識の違いで苦労しているクワイヤも少なくない。また、ゴスペルを通して救われた人が教会に定着しないということもいまだに問題となっている。
そのようなことを考えれば考えるほど、Tちゃんの存在は本当に貴重だ。
だからこそ、私に目を注いで欲しくなかった。
だからこそ、私は離れる決意をした。
主のために大いに用いられるべき器だから。
主が喜んでくださるならば、主のみこころが成るならば、私は何だってするし、我慢もする。
私が軽井沢で受霊したとき(2006年?)、主から「Tちゃんを助けなさい」と語られた。
それ以前にもミニストリーにはちょこちょこ関わっていたけど、その出来事があって以来は特にTちゃんのサポート的な役割で共にやってきたつもりだ。
だからこそ、今回のシンガーズに入るという話はとてもじゃないけど考えられなかった。
池袋のゴスペルミニストリーは主がTちゃんと通して始められた。
しかも、教会のゴスペルクワイヤ、教会のミニストリーとして。
今まで、教会からの反対やメンバー間のすれ違い、問題…また、Tちゃん自身の問題や私たちの問題…いろいろなことがあって、いろいろな思いがあって、たくさんの祈りがあって…そのひとつひとつを私は見てきた。
そして、一緒に闘ってきた。そして、乗り越えてきた。(もちろん、その全てで主の助けがあったのだが。)
それがあって、今のゴスペルミニストリーの祝福がある。
それがあって、私たちの主にある、本当に分かりあえる関係がある。
帰りにTちゃんとご飯を食べながら、最近あったアメージングな出来事や、Tちゃん自身のこと、また私とみののこと…たくさん話した。その中で今までの話しの中では『聖霊が~』と話していたのに、いきなり『御霊が~』と言って、それを指摘したらよく分からないが、ツボって…さらに『バラバラ祈った』という言葉にもさらにツボったw
さらに話しは終わらず…私のこれからの人生について(特に恋愛について?)熱心に語り合った。
真夜中近くまででしたねぇ~…そういえば、先週の火曜日も語り合って、終電を逃したということがあったわww
3日目。
日曜日。今日の午後はGM。
二人で歌うということは想定内だったので、驚きはしなかったが、事前に流した曲とは大きく変わっていたし、全く初めてやる曲があるのは初めてのことだった。
リハ。少しひとりで歌ってもらい、霊的な状態をよみとる。そして、合わせる。
リードする人がどのように導き、どのようなことを求めているのか、そしてその上で自分がどのような霊的役割、ポジションで賛美すればいいのか…そのためのリハでもある。
自分で言うのはなんだが、このことは自分の賜物だと思う。
だから、音楽なんて二の次だと私は思うのだ。
私ができること、私の役割は霊的な賛美なのだから。
今日はみことばを読んでくれたし、具体的に「御霊による礼拝」ということを言ってくれたので合わせやすかった。
リハの中でPが「おお!」と言ったのも納得というか、理解できた。
向いている方向や霊的な感覚が一致していた。
Tちゃんのよいところも悪いところも多くを知っている。
その上で、違いを理解しつつ、その全てをリスペクトできる。
ない部分は私が補い、こぼしている部分は拾う。
これが同労者というものか。
目に見える部分での相性(性格とか)よりも、目に見えない部分での一致が大きい。
何も言わなくても、何も語らなくても分かるという…。
とても不思議だ。
今日、Tちゃんは献身の決断をした。
言葉ではあまり言わなかったけど、召しの確信が与えられたんだなっていう感じだった。
注がれていた。
目が違った。顔が違った。
自分の思いではない、自分ではない。
主から献身の召しが与えられるとはこういうことなんだって感じた。
本当に嬉しい。
主のみこころが成ることは本当に嬉しい。
私自身、見えている視野は、とても広い。
この世でもあり、霊的な世界でもあり。
なので、時にいろいろな情報が入りすぎて疲れることがある。
前に立って何かをしたりするのは向いていない。
私はとりなし手なんだって改めて思った。
エクレシヤ全体、またその構成員一人一人に対する主のみこころは何なのか、それぞれの役割とポジションまたバランスはどうなのか…そのことが、主のみこころと一致すればするほど、祝福が多く注がれる。
そんなこと言って…あんた何様!?って人によっては思われる。
また、自分自身もそう思うことがある。
でも、そんな気持ち以上に主のみこころが成ることに妥協できない自分の気持ちがある。
私はもうすでに、自分に死んだものであって、キリストに捕らえられている。
生きることはキリストであり、死ぬことは益である。(ピリピ1:21)
キリストのために生きたい。
GMで二人で主の御前に立ち、主を仰ぎみていたそのビジョンが私の霊の目で見えていた。
Tちゃんの献身は他人事ではない。
私の中の霊的な部分が揺さぶられた出来事であった。
新たなる御霊が注がれ、新たなる扉が開かれたことは確実だ。
これからのTちゃんの歩み、またミニストリーの歩みが楽しみで仕方ない。
とりなし手としても祈りがいがあるな☆
ハレルャ!主に栄光!