昨日の昼、実家で父の遺産について協議。

末弟が相続した、およそ70坪の宅地と、市街化調整区域の500坪の貸工場と、俺が相続した、47坪の宅地との差を、金額に置き換えた。


ちょっと金額が大きいし、それをくださいとは言わないが、その1/3に当る金額を分けてもらえないだろうかと。


あくまでもお願いベースで。

弟は即答で却下。

今の俺の年収の2年分に当たる金額を、自分の取り分としたいと言う。


金額に関しては、その日は決着つかず


それはいいのである。

キツかったのは、俺と弟が話をしようとしている間に常に入り込んできて、「次男は、『俺は遺産要らんから、母ちゃんが亡くなったあと、父ちゃんが書いた掛け軸をくれ』と言っている。欲の無い良い子や。」

「お前が住んでる家、私が毎月、そこいら中から金をかき集めて3000万円払ったんや。」と強調する。

その毎月の支払い、若干20歳から10年間、俺が毎月5万円家に入れていた金も含んでるでしょ。


20歳当時の基本給って13万円程度だった。


残業ゼロだと諸々引かれて8万程度だったと思う。


そこからの5万献上はキツかったわ!


そんでもって、18歳で最初に就職した、基本給68000円の会社で、2年で30万円貯金したら、その金を家の手付けとして渡せと言われた。


家は、当時家族で住んでいた市営住宅から歩いて3分の場所。


狭くて汚い市営住宅を出たかった俺は、一戸建て住宅地と言うやつに目がくらんだのだ。


その家は、自分たちの為に長男の俺を縛り付けるための家だった。


家を建てて10年後、両親と三男は、父の経営する鉄工所の近くの70坪の土地に二世帯住宅を建てた。


三兄弟の誰かと一緒に家族で住むつもりだったんだろう。


俺の住む家は、実家から6kmほど離れてしまった。

家を買う時、おれんちのことなんて、綺麗さっぱり忘れていたんだろうな。

次男坊は、俺の家が出来る前に高専を卒業し、千葉の某財閥系の化学工業会社に就職して家を離れた。



三男は父の鉄工所を手伝っていたが、不景気で仕事がなくなり廃業したあとは、転職せずに家に引きこもった。

三男が引きこもって30年以上経つ。


当初は両親の頭を悩ませ、疫病神のように思われていたが、両親が老いるにつれ、昼前、時間を持て余している三男は、都合のよい家政夫として、両親に重宝がられるようになって10年ほどになる。


三男が、自分の将来のた9めに、父が残した預金の2/3を貰うと言った時、母は、「この子には面倒見てくれる子供がおらんのや!」と俺に言う。


俺には息子が2人いるが、俺は、自分の世話をさせるために子供を作ったのではない。


そう言ったが、母には響かない。


ヨメを愛したから長男が産まれ、長男をひとりっ子にさせたく無かったから次男を作っただけだ。


ジジイひとりの老後なんて、70坪の家を売れば、老人ホームに入れるし、貸工場の家賃収入があれば充分事足りる。


子供なんて必要無いやろ。


母の言葉は続く。


「『寝たきりになって、看護がずっと必要な状態になったらら、俺が金出すから看護付きの老人ホームいれたるよ。』って次男は言ってくれた。」


次男は独身で、5年間中国に単身赴任している。


その間、部長職で、金を貯め込んだようである。


「母ちゃん、情けなくて申し訳ないけど、俺はそんな台詞、言ってやりたいけど、言えない。ごめんなさい。ほんま、ごめんなさい。」


もう謝ることしか出来ない。


「あの子には、何もしてやれてない。高専に5年間活かせてだっただけや。」


1番手がかからなくて、優秀で、そして高収入で親孝行な次男。


死にたくなった。


そして、高齢者のあるあるで、これらの、俺を苦しめる話がエンドレスで母の口から放たれる。


呪文のように。


もう何度も聞いたから、頼むから弟と話をさせてくれと言った。


交渉はまとまらなかった。


母は満足したのか、薄笑いを浮かべ、困ったら言ってこい、と言う。


散々心を削られたせいか、母に蔑んで見られてるように感じた。


その夜は11時に寝て4時に目が覚めた。


月曜の朝、病院での血液検査で、腫瘍マーカーCA19-9が2337.7U/mLと跳ね上がっていた。


愕然とした。


治療初期の値が2583.3だから、1年経って元に戻ったと言うこと。


最近は、上腹部の痛みが戻ってきていて、麻薬無しでは生きていけない状態。


今日は主治医は不在で、臨時の女医が担当。


「数値高いですね。来週、主治医と話し合ってくださいね。」と言う。


思考が半分静止した。


診察室を出て、処置室で抗癌剤投与をしてもらっている間、ひたすら寝た。


余計な事は何も考えたくなかった。


薬局で薬を用意している間に、昼食に天ざるを食う。


天ぷらは普通だが、蕎麦が不味い。




味覚障害のせいだと思っておこう。


薬局で出してくれた薬を見て、ちょっとキレる。


頼んでもいない薬が処方されている。


今回頼んだのは便秘薬のみ。


他の薬は、3/18日に1ヶ月分貰っている。


更に1ヶ月分出すってどういうこっちゃ?!


頼みもしない薬をどんどん処方するのが加古川中央市民病院の流儀なのだろうか。


お陰でツムラ十全大補湯(48)は腐る程在庫がある。


一瞬、貰って帰ろうと思ったが、今回は拒絶することにした。


FAXでのやり取りになるので、少し時間がかかりますよと言われたが、お願いした。


帰宅したら、ちょうどヨメも帰宅してきた。


俺は、これまで溜め込んできた治療関係の書類を整理した。








ファイル整理が終わった頃、ヨメはコンビニのバイトに出る直前だったが、腫瘍マーカーの件を報告した。


ヨメはいつも、俺のネガティブな報告は、騒がず静かに受け止めてくれる。


それがすごくありがたい。


GTOリバイバルを観た。


予想通りの安価なクオリティー。


反町の臭い演技が際立つ。


しかし、本当に不覚ながら、軽く心揺さぶられて涙してしまう。


かなり重症である。


相当な心の折れ様である。


録画していたドラマを観終わった頃ヨメが帰って来て、オレが泣いたと言ったら笑われた(笑)


ヨメが寝室に消え、テレビを付けたまま、この記事を書いていた。


突然泣いた。


テレビは深夜のバラエティー番組をやっている。


鯛を扱うおっさんに取材していた。


それをチラッと見ながら、記事を書きながら、意識の傍らで、処刑台への階段を1段踏みしめてしまった、確実な音が俺の頭の中で鳴っていた。


涙が次々溢れて止まらない。


大きな声も出てしまった。


意識を消さなければ。


この死のイメージをどうにかしないと、頭がどうにかなってしまいそうだ。


録画リストを検索して、「ハイキュー!!」をチョイスした。


ちょっと元気になる。


思い切り泣くと、スッキリする。


まだ何も終わっていない。


まだ始まってさえいない。


世界は残酷だけれど、それでも人は、死の直前でさえ生きている。


生きて楽しむために俺は産まれた。


母の世話をする為に生んで育てられ、そして裏切ったのだろう。


裏切り者の末路なんだろうが、生きてやる(笑)


できるだけ生きて、笑って死んでやる。


多分それは、親孝行なんだろうと思うから。


ちなみに、麻薬が効きにくくなってきている。


今夜だけで既に5袋飲んだが、効果が出る30分後、更に30分もすると効果がなくなる。


麻薬はあと50袋しか無いが、切らさないように注意しないとな。