・世の中は善人ばかりではない、だから必要とあらばよからぬ人間になることも学ばなければならない、とマキアヴェリは教えた。学校や教会で教わる道徳は、当の学校や教会を守るために必要な行動とさえ相容れない…マキアヴェリは長い間、悪の提唱者だと見なされてきたが、「君主論」では一度も悪のための悪は推奨されていない。君主の、つまりリーダーの究極の目的は、国家を維持することである(そして君主の地位を守ることである)。政治の世界では、道徳に従っていたら国家の破滅を招きかねない。そこでは一見すると悪と見えることが安全と繁栄につながることがある。言い換えれば、政治の世界ではかんたんな選択など存在しない。政治における賢明とは…直面する選択の困難さを認識し、より悪くないほうを最善のものとして選ぶ術を知ることにある。

 

⇒以前にも書いたと思うが、やはりそれなりの功績を遺す人は「清濁併せ吞む」覚悟が必要だと思う。物事きれいごとだけでは進まないことは分かり切っている。リーダーというと何だか堅苦しい表現になるが、人を動かす立場の人には、一般的な道徳心や常識はいい意味で持ち合わせていない方が良い気がする。持ち得ていないからこそ今の地位に納まっているのだし、他より頭一つ分抜きに出ているのだろう。そんな人がその地位に納まっていていいのかという疑問は脇に置いておき、他よりも自分のグループを最優先に考えているからこそ、自己犠牲もいとわないのだろう。自分の利己心だけを考えて行動していたとしたら、きっと今の地位は築けていないだろうし、所属するグループも躍進はできないだろう。僕が店長代理になって、店は良きにしろ悪きにしろ店の売り上げは平行線を保っていたと思う。もちろん虚業を続けながらなので本当の意味での売り上げではないが、それでも前任者からの水準は保つ努力はしていた。といえば聞こえはいいが、実際は虚業をカモフラージュするために、店長代理という地位を活用していた。むろん臨時にしろ店の代表者として、檄を飛ばすこともできたし、他の従業員に対してダメだしすることも可能だったが、そんな業務にはてんで興味はないし、正直そこまで気が回っていなかった。何しろこちらは虚業をすることで手一杯なのだ。店全体に目を配ることは正業にしろ虚業にしろ大事なことなので、両者を併せ持っていたが、僕は生かさず殺さずを秘かに保ちつつ店長代理をしていた。

 

・仕事で得られる報酬の半分は「実際の仕事」に、残りは「仕事のアイデア」と「アイデアを実行に移した勇気」に対して支払われるもの。

 

⇒全てのしごとに対しての共通認識ではないかもしれないが、これは起業家と事業家による違いに酷似している。これはまったくの受け売りなのだが、起業家は「0→1」を創出し、事業家は「1→10」を創出する人のことを言うらしい。実際の仕事をしていたとしても、それがすでに出来上がってしまった既定路線の延長線上に存在するのであれば、「仕事のアイデア」や「アイデアを実行に移す勇気」の対価は発生し得ない。なので「実際の仕事」に趣を置く結果に必然的になる。僕はこの一件以外にも、いい意味でも悪い意味でも元来多くを求めてしまう性格なので、現場の事業改革(作業の効率化)をしたくなってしまう。それで周囲から幾度も嫉妬ややっかみを享受してきた身だ。このことは今は脇に置いておくとして、虚業は全くのオリジナルではないが、正業に当て込むアイデアや実行に移したことだけを言えば、半分の報酬に該当するのだろう。もちろんそんなマニュアルは店には元来存在しない。僕独自のマニュアルで運用されていた。またこうは考えられないだろうか、正業(実際の仕事)に対して半分。虚業(アイデアや実行力)に半分支払われていた。ということにだ。しかし虚業は自作自演なので支払う対価に値しないのかもしれない。

 

・恐怖を乗り越えれば、楽な気持ちになる。

 

⇒確かに何事も最初の一歩が大事だということは通説になりつつある。一歩踏み出した先に何が待ち受けているのか、その恐怖は計り知れないことだろう。それが絶対確実な安全な道ではないと分かっていれば尚更だ。僕にとっての恐怖は分かり切っていた「復讐のすべてが露呈すること」だ。その恐怖を理解できていたので、まだよかった。それと配置換えをされた時に感じたのが「もう復讐を継続することができなくなる」という暗たる思いだった。どちらも自分の目には明確に見えていたので、決して怯えることはなかった。恐怖に打ち勝つということとは違うが、相手が見えていたので防御はし易かった。恐怖に取り込まれないように、恐怖に近づかないようにさえすればいいのだ。かといって能天気に日々を過ごしていてはすぐに足元をすくわれる結果になるので、そこは恐怖をけん制しつつ復讐を実行していた。実体のある恐怖がはっきりと認識できていたので、心持ちは軽かった。取り込まれず、近づかずを信条にしていれば、概ね楽な気分でいられた。恐怖に姿がなければ、それは怖いだろう。いつなんどき襲われるか予測ができないことも加味されてしまう。アメリカの軍隊の格言に「失敗の原因が理解できれば、それに対処できる」という言葉がある。至極真っ当な気もするが、やはり原因がわからないでいると対処のしようもない。だから思考の袋小路に迷い込んでしまうのもうなずける。 

 

・彼らは自由を愛し、そのための活動を愛する。彼らの愛するものはカネそのものだけではなく、活動のもたらす興奮や緊張感でもある。

 

⇒確かにツール(金銭)目的ではなかった。すべては店長に同じ思いを味わわせるという私怨から端を発している。そのなかで、日々欺き続ける興奮や、決して露呈してはいけない緊張感もあり、それらを愛おしく思っていた。己に課す正業のなかでの自由度も愛していた。正業という枠組みの中でいかに、虚業へつなげるのか、またカモフラージュとして用いるのか、それを考え実行するのも楽しかった。何よりもすべてを内含する「虚業」を愛していた。

・詐欺師には超人的なところはまったくなく、彼らが用いる方法にしても神秘的とか超自然的というものとは無関係だ。彼らは反社会的ですらない。

 

⇒ここまで表立って擁護されると何か謙遜してしまいそうになるが、その通りだと思う。別に特別なことはしていない。すべて既定の範囲内でのことだ。確かに物事を現実を斜に構えて眺望している部分はあるが、「四角いモノも見方を変えれば円に見える」といった類の話だ。その角度を見つけられるのかの差でしかない。別段特殊な能力があるとか未来を見通せるとかいう力は皆無だ。ただ詐欺師は、他の人が見えない角度を探すのがうまいだけだ。他の人々が目を背けるようなものを見るという意味ではない。僅かながらのスキを見つけることに長けているだけだ。もちろん言わずもがなだが、相手の心のスキも含まれる。そして誰も踏み入れない人跡未踏の領域に足を踏み入れることも厭わない。進んで自らがファーストペンギンとなって、海に飛び込み悠々と海面を泳ぐ、人跡未踏の道を進むのだから、もちろんガイドブックや案内してくれる人もいない、だから自己の危機管理能力が必須になってくる。第六感ともいえるものが必要なのだ。

 

・自分にとってだけの自由な行動だと思って行動したことが、この人間界では、良きにしろ悪しきにしろ、自分にかかわりのある他人に何らかの波及効果を及ぼす場面が実に多い。

 

⇒これは同感である。自由に行動していて、結果周囲の人間を巻き込んで一つの犯罪が秘密裏に進行していた。もちろんその行動を起こす原因はあった。自分の欲望に忠実になって、事を始めたわけではない。自分の頭で考え、試行錯誤しながら実行して、わが道を突き進んでいく。無論、虚業は店長に対しての行動だ。夜学生は何ら関係ない。だがしかし狭い範囲での出来事なので、必然的に巻き込まれる結果になった。店長との一対一での心理戦なので、はっきりいって夜学生自身の心持は知らないが彼は傍観者である。

 

・「倫理」とは、「正しい」とか「よい」とか「やるべきだ」とか信じられていることについて、なぜそう信じられているのか、それは本当に「正しい」のか、「よい」ことなのか、「よい」とは一体どういう意味で「よい」のか、などについて、いつも考え直そうとする態度のことだ。

 

⇒この言葉はとても胸が痛い。「正しい」とか「よい」とか「やるべきだ」とかを正直一々考えて行動はしていなかった。個々に読み解いていくと、まず「正しい」ことについて、復讐したことは正しかったのかという問いについては、そんな勧善懲悪的には考えていなかった。ただ「やられたからやり返そうと思った」だけだ。至極簡単な理由だ。それが正しいと思う根拠である。ではそれは「よい」ことだったのかと問われると、「よい」ことだと思う。これからもこれまでも一緒に働いていくうえで、こちらの精神衛生学的にもそう思っていた方が気楽である。では「やるべき」だったのかという問いに対しては、やはり「やるべき」だった。これもこれからいつまで一緒に仕事をするかは未知だったが、自己の精神衛生学的に後悔や遺恨を残したくなかった。それら三点をいつも念頭に置いて復讐していたわけではない。ちょっと意味合いが違うかな?