・詐欺師というものは日常、行住坐臥、坐作進退、常にチャンスを狙っている、またはつくり出す。この心得がなくて、大仕事が完成したので気を休めるなどというのは一流に値しない。といっても、虎視眈々として眼をぎらつかせて狙うのではない。剣の奥義に「睡猫の位」というのがある。「牡丹花下の睡猫、心舞蝶にあり」というが、「草花の 下に眠る猫さえも 宙を飛び来る蝶をめがくる」という道歌(秘伝や訓えを七五調で伝えた口伝)に訳される心法である。心法とは技法と並ぶ重要なもので、心構えという意である。この道歌の本意は、いかにも戦々兢々としているのではなく、眠っているように穏やかに構えながらも、心はいつなんどき飛来するチャンスにも構えていろという意である。または、血眼になって戦々兢々としてチャンスを待っているのではなく、眠っているように穏やかでいよ、という教えでもある。いかにもチャンスを待っているように構えていてはだめ、ということだ。また、心が舞う蝶に囚われてもいけない、平常心で、かつ油断なく待て、という超一流詐欺師の教えでもある。常にチャンスを狙っていなければ、つまりは熾烈な目的意識を堅持していなければ、せっかくのチャンスをも見落としてしまう。チャンスがチャンスに見えてこないものである。

 

⇒正業を疎かにしてはいけないので、心を乱されて常にぎらついてはいなかったと思う。狙うべき獲物は目の端で捉えておいて、チャンスが来た時に狩りにでる。ちょうどレジも厨房から見えやすい位置にあったし、虚業以外ではレジに別段興味はないので、わざと通常業務をするために、レジに近づいて虚業をするくらいのタイミングで手助けをする。だが振り返ってみると、目的の伝票を抜き取るために多少手荒い真似もしたこともあった。ぎらついていたのかもしれない。虚業はほんの数秒で完結するので、意識を長い間そこに集中させておく必要はなかった。それにレジを狙う理由としては、客の会計を早く済ませるという代替え案もあったのかも、案というか意識があったのかもしれない。

 

・「歎異抄」に「わが心のよくて殺さぬにはあらず」とある。「自分の心がよいから殺しをしないのだというのではない」ということを自覚している悪人のほうが「自分の心がよいから殺しをしないのだ」と思っている善人よりも救われるのだと説く。いわゆる「悪人正機説」である。有名な「善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや。然るを世の人常に曰く、悪人なを往生す、如何にいわんや善人をや」(善人さえ成仏できるのだから悪人が成仏できないわけはない)の教えである。阿弥陀仏の本願は、悪人を救うことが目的であり、悪人こそ往生するに相応しい機根と説く。一流詐欺師は、これをよくわきまえている。「自分は真っ当な人間で清潔を旨とする」などと触れ歩いている者は往々にしてちょっとした躓きで大失敗するが、一流詐欺師は自分が虚実皮膜の間にいるのだという自覚を持っているために、「化外の民」(どんな法にも咎めを受けないで法の外側にいる者)でいることができるのだ。善か悪かという二元論で空回りすることを「二見に堕す」といって、禅的心境などでは避けるべきものとされているが、詐欺師には善と悪との二元論が最初から存在しないので、心境すこぶる爽やかである。だからこそ余人には出ないアイデアが出るのかもしれない。彼らは、人間の真の姿、裏表ある人間の実体を見据えているのである。人は一面では捉えきれない。状況によって100%善にも100%悪にもなる、そうやって発展していくものだという、いわば弁証法的な状況論的人間観を持っているようである。

 

⇒僕が思うに「清濁併せ吞む」ことは必要な行為だと思う。自分自身の道徳心や良心を凌駕する程ではないにしても、それらを自分の中にちゃんと認識しておくスキルは必須だろう。これは自分の中でアウトなのかセーフなのかをちゃんと見定めておく。その上で一線を越えるのかを自己判断する。それに一線を越えるという表現もすごく曖昧だと感じる。正直、店長に対して秘密裏に復讐を遂行し、その方法論として会計操作を選択した。他から見れば一線を越えた行為だと非難されるだろう。自分の中では何ら一線を越えた行為だとは認識していない。それこそ自分に内在しているモノから派生したもので容認できる事柄だ。世の理を超えて常識や正義などに惑わされることなく、自分でその都度精査していく。最初に深く考えすぎては一歩も前に進めなくなる可能性もあるので、大体の構想を持つ。頭でイメージしてもいいと思う。それができればそれを実現するために何をすればいいのかを逆算式に計算して実行していくだけだ。他人にどう思われようと関係ない。自分の中で精査した結果行動に移しているので何ら後悔もない。自分は自分だ。それに正義は移ろいやすいもので時代や立場で簡単に変化してしまう。不変な正義など数少ないだろう。世界中には多種多様な価値観が現存し、それぞれの正当性を主張している。「価値観の多様化」などという通り一遍の言葉では言い表せないほど、複雑な様相を呈している。誰にとっての正義?どの立場での正義なのか、深く考えれば考えるほど深みにはまる。だから二元論で考えるのではなく、自分の中の絶対なる道徳心や良心なるもので精査を重ねそれに従って行動すればいい。僕の場合はそうした結果、会計操作をすることが復讐することだという結論に到った。店の売り上げを不当に操作するのは、どう考えてもまずいことだろう。何の考えや根拠もなくただ自分の欲求や快楽を満たすために行動するのは愚の骨頂だと思う。ここで少し弁明をさせてもらうと、店長に復讐することは自己欲求だし自己快楽にもつながるが、それは従来の趣とは異にする考えだ。そこには自分なりの道徳心や良心がはっきりと反映させている。初歩的な説明になるが「因果応報」の一言に尽きる。人にやったことはいつの日か自分に返ってくる。人を指さすとき、残りの三本の指は己を指していると言葉をどこかで見た気がするが、原因には結果が伴う。罪と罰ほどではないにしろ、何らかのアクションを起こせば何らかの反応が返ってくる。自然の摂理なのだ。

 

・実績を手にするまでは時間の奴隷にならざるを得ない。でも、そこから先はまったく違う時間の使い方ができる。

 

⇒復讐を決意して、実行するまでにさほど時間は掛からなかった。自分の頭のなかには昔見たアニメのイメージがあったし、確認のためにもそのアニメを見直したくらいだ。だが、イメージするのと実行するのにはやはりというべきか当然に大きな隔たりがある。最初は少ない額で、計画的に行っていた。時間と日数をかけて試行錯誤しながら、それが徐々に店長の首を真綿で首を締めるが如き結果になった。それらはレジの集計のタイムテーブルに合わせて実行しなければならず、狙っていた伝票を取り損ねることもあった。それに担当が交代制なので、それも考慮しなければならず、気が焦る場面は幾度もあった。段々と仕事にもなれ、時間をコントロールすることができるようになり、売り上げのタイムテーブルに合わせて行動することができるようになったし、狙っていた伝票が取れない事態に陥っても落ち着いてそのミスを補正することもできるようになったし、担当が交代するタイミングも自分に優位に働くようにできるようになった。持ち場を変えられた時は、少々焦ったが、それも今までの経験を踏まえて、前よりも楽に実行できるようにもなったし、持ち場を変更されたことで、より自分を安全圏に置くことができた。

 

・自分のチーズが大事であればあるほどそれにしがみつきたくなる。

 

⇒今現在の自分にとって「チーズ」が何のメタファーなのかでその意味合いは全然違ってくる。僕の場合は大前提として「復讐」である。そんな体のいいことを言っても会計操作をしている時点で、「お金でしょ」と思う人が大多数だろう。何度も言うが会計操作は復讐のツールでしかない。それ以上でもそれ以下でもない。話を戻すと、ある時はホールの仕事をしつつ復讐をすることがその頃の僕の「チーズ」だった。レジの近くにいて自然な動作で伝票を抜くのに一番合理的な場所を確保できるからだ。その絶対的安全圏である持ち場を離れなくてはいけないと分かった時は少し落胆した。その場所が確保できないということは復讐が頓挫する可能性が大きく、今までやってきたことが思わぬことで露呈してしまう可能もあった。レジ横を離れ、それを少し距離を置いたところから静観しなければならないという一種の生殺し状態。文字通り僕がレジに触れる機会が封じられることで、売り上げが跳ね上がり正常な状態へと帰化する。なのでホールという業務に固執してしまっていた。だが、持ち場が変化してもそこは臨機応変に、むしろ今までよりもずっとうまく実行できるようになった。やっていることは今までと変わらないで、今までより安全圏にいることができるし、結果無駄な作業や心配が削ぎ落とされることになった。その時点で僕の「チーズ」の意味合いは変化した。そこで原点回帰して、更なる復讐方法に磨きがかかった。この場所から今まで以上に復讐をやり遂げるという絶対的な自信へと変化した。

 

・詐欺師たちはきわめて高度な知的労働者の当然の報酬であると自任して、自らのことを高度知能作業従事者で、かつ自然主義的総合芸術の体現者であるかのような誇りさえ持ち合わせている。

 

⇒カッコよく言い表しているが、所詮詐欺師は詐欺師である。どう言い繕ってみてもそれは歴然たる事実である。確かにそういう肩書には強い憧れを抱く。高度かどうかは判断がつかないが僕はそうは思わない。確かに頭は人一倍使う。正業の世界と虚業の世界とを日夜行き来しているので、少なくとも他人の二倍は頭を使っているはずである。その報酬としてプラスアルファを他人から搾取する。個人的な意見を言わせてもらうと、他人同様自分自身も騙せなくてはいけない。自己催眠とも違うが、自分の内に何かしらの絶対的な自信が確立されていなければ実行はできないだろう。そしてそんな自分に自己嫌悪を抱くことなく信念を持って実行できる域まで到達していなければ、詐欺師にはなり得ないだろう。そんな肩書に非常に魅力を感じるが厳格な意味では僕は詐欺師ではない。これは別に自己弁護をしているとかではなく謙遜しているわけでもない。ただ先に挙げたいくつかが偶然にも自分の中に内在しているだけであってその名に憧れを抱いているだけの小兵なので真の詐欺師とは言い切れない。僕も肩書として「高度知的作業従事者」と名乗りたいものである。それに続く「自然主義的総合芸術家」もとても良い響きではないか、こんなことを言うと反発が起こりそうだが胡散臭さは払拭できないまでも、やっていることは「空間プロデューサー」なる職業と同様な気がする。とある空間を創作している。その自分の仕事の結果に自己陶酔している。「これだけのことをやった。すごい自分」と一人悦に入って酔いしれている。高度な知的労働者の肩書を欲しいままにしている。詐欺師を指す言葉では飽き足らずいろんな職業の呼称に多用できそうである。だいぶ話が逸れたが、別に高度な知的能力者や総合芸術家を自負する必要はなく、ただどれだけ自分のやっていることに意義を持てるのかということだと思う。会計操作をしている意義、復讐を決意した意義、正業と虚業を行き来している意義、どれだけ自分の中にその必要性を見出せているのかを説明できるかが肝要なことだと思う。