これまで論理的?な見解を示してきたが、もちろん論理が破綻しているのは分かっているし、意見が行ったり来たりして二転三転したりしていることも認識しているし、いろいろな感情が混在しているのも承知している。なのでここで原点回帰のためにも、そもそものきっかけになった出来事を書いておこうと思う。この文章を書こうと思ったきっかけは、先にも書いたが拘留されている池上クンの元に差し入れが続々と届けられていることをたまたまテレビ報道で知ったからだ。なぜ送られてくるのかというと、彼が起こした事件によって、社会の闇?に光が当てられ、それが大きな社会問題化し、それによって大勢の人たちが救われたからなのだと思う。その結果を鑑みて僕の中で(どう変換されたのか分からないが)、「トロッコ問題」に結びついたのだ。池上クンが起こした事件は結果的に、大勢を救ったが差し迫った問題ではなかった(当人にしてはそうでもなかったようだが)。トロッコ問題は差し迫った危険が目前に迫り二者択一を早急に決めなければならない状況だ。結果が目に見えていた。だが、池上クンの事件は、本人も予期しないくらいの波及効果を社会に生み、その結果大勢を救うことになった。この「大勢を救うために、一人の犠牲を払った」という結果に、世間は反応したのだと思う。トロッコ問題を想起して、いろいろと調べていくうちにつれ、類似問題にたくさん出会い。それを織り交ぜながら、この文章を書いた。前にも言ったが、池上クンが起こした事件はれっきとした犯罪行為だ。それを英雄視する人たちがいるから、差し入れが次々に届けられるのだろう。池上クンの事件が起こった時、差し入れをした人たちだって、自分勝手な動機で殺人を行うなんてなんて恐ろしい、と本能的に感じていたことだろう。僕だってそれは恐ろしいと感じた。しかし恐ろしいことが悪いことだとはかぎらない。見ず知らずの他人を救うために電車が迫る線路に飛び降りる行為は恐ろしい。しかし正しい行為だと思う。もちろん、他人を傷つけるのと自分を傷つけるのとは違う。という意見もあるだろう。ただ共通の利益ということを考えれば本当はどちらも変わらないことだと思う。この思想は危険なことだと自分でもわかっている。このような思想の持ち主は、1)精神病質であるか、2)目的のためならば手段を問わないマキャベリストか、あるいは、3)厭世的なニヒリストか、いずれかに該当するのだと言う。差し入れをした人たちは、きっととある団体の暗部が表面化し、池上クンのことを直感的に英雄視したのだろう。小難しい議論などしなくても、ただ「よい」のだからそれでいいではないかと。これは僕の全くの邪推だが、差し入れをした人たちはきっと論理よりも直感で実行しているのだと思う。理屈以前に、その人たちは池上クンの行為は他の身勝手な殺人とはまったく違うものだと感じたのだろう。そういう当たり前の感じ方を見くびってはいけないと思う。哲学の世界にも「倫理的直観」という専門用語が存在するくらいなのだから。この邪推が自然主義的誤謬を犯していることも分かっている。「よい」という言葉が定義不能だということも分かる。なぜならば「よい」に相当するものが自然には存在しないからである。客観的に、目に見える根拠がないということだろう。他方、「快い」という言葉には根拠がある。科学的に観測することもできる。でも「よい」というのはどうやっても観測することができない。たとえば誰かが「よい」というのは「快い」ことなんだ、と発言したと仮定する。それに対して僕が「じゃあ、快いことはすべて容認されるべきなのか?」と尋ねたら、相手は僕の質問の意図をすぐさま理解できるはずだ。つまり、「快いことは快いことなのか?」という意味にはとられない。誰だってその違いはなんとなくわかる。「よい」というのは見たり感じたりできるものではなくて、抽象的な価値を表す言葉なのだ。(また話が脱線してしまったので、話を戻す)池上クンの犯行動機を聞くまでは、ただの身勝手な思い込みで人を射殺した事件として捉えられていたのが、いざ犯行の根源を調べると、根にはとある団体のとても深刻な状況が判明した。とある団体の実態が明るみに出たことによって、池上クンの事件は別の側面を表す結果になった。言いたいことを明確化するために、やはり例題としてトロッコ問題を記すことにする。「暴走する路面電車の前方に複数人の作業員がいる。このままでは、電車は複数人全員をひき殺してしまう(複数人は何らかの理由で線路から退避することができない)。一方、もしも電車の進行方向を変えて待避線に向ければ、そこにいる一人の人間をひき殺すだけですむ。さて、路面電車の運転手はそのまま何もせず複数人の作業員に突っ込むべきか、それとも向きを変えて一人の人間をひき殺すべきか?」という倫理問題だ。これの類似問題として、「暴走する路面電車をあなたが目撃しているとする。しかも数歩先には、電車の進行方向を変えるための切り換えスイッチがある。あなたが何もしなければ、電車はそのまま突き進んで複数人の人間をひき殺してしまう。一方、切り替えスイッチを操作して電車を待避線に向ければ、犠牲者は待避線にいる一人だけですむ。この新たな問題のポイントは、あなたは運転手ではなくただの目撃者であるということだ。運転手にはどちらか一方を選ぶ責任が生じるが、目撃者にはその責任は生じ得ない。もちろん運転手だって「何もしない」ことは選択できる。しかし運転手の仕事は電車を正しく進ませることだから、電車の進行方向に無関心でいることはできない。仮に何もしなくても巻き込まれざるを得ないということだ。目撃者の場合はそうではなく、自分で選択しないかぎり電車の進行に関して何ら責任は発生しない。さて、暴走する路面電車を目撃したあなたは、何もせず成り行きにまかせるべきだろうか。それとも切り替えスイッチを操作して、複数人を救い一人を死なせるべきだろうか?」そして、僕が言いたいことは次の問題だ。「あなたは待避線の線路上にいる。体が何らかの理由で縛られていて逃げることはできない。暴走する電車が複数人の人間に向かっていくのが見える。足を伸ばせば、路面電車の方向を切り換えるスイッチにちょうど届きそうだ。スイッチを操作すれば、電車は待避線に進路を向け、自分一人をひき殺す。スイッチを操作しなければ、電車は複数人をひき殺す。さて、あなたはスイッチを操作するだろうか?」という問題。この問題に少し設定を加えて、「…暴走する電車からは長いトンネルの中にいる複数人の姿は見えない。トンネル内に人がいるのを知っているのはあなただけだ。その場合、あなたはスイッチを操作しますか?」という問題だ。他人のために行動するのはいいことだが、果たして自分の命を犠牲にしてまで複数人を救うべきなのだろうか。かなり現実離れした問題になっているが、池上クンの行動はこの問題のスイッチを操作した結果、自己犠牲という言葉には決してそぐわないが、長いトンネルにいた大勢を助けた(実際には、池上クンに長いトンネルの中にいた大勢の人の存在は見えていなかったが)。彼の自己犠牲?のおかげで大勢が救われたことは確かだろう。参考までに路面電車ではなく、たとえば飛行機が不時着しなくてはならない状況があったとして、都心部を避けて人の少ない地域に着陸させればパイロットは評価される。もちろん路面電車の運転手同様「何もしない」という選択肢はないわけだが、そんなことを気にする人はほとんどいないだろう。差し入れをした人たちは、池上クンの行為をそれと同じように英雄視したのではないだろうか。この世に「たられば」は存在しないが、もし池上クンの撃った銃で人が死ななかったら、今回のような状況になり得ただろうか、撃たれた人物は一命を取り止め、池上クンの衝動はそのまま存在するとしても、とある団体に対して今みたいな厳しい調査は行われたのだろうか、たぶん行われないだろう。理由は言わずもがな、である。たぶん外部圧力によって、握りつぶされていたことだろう。(そう考えると、犠牲者たる人物が英雄視?されるべきなのか??だからあんなに…)(池上クンは「漁夫の利」状態?)様々な見解があり、まだまだ書き足りない部分も多々あるが、この問題はここで終わりにしようと思う。そしてまとめとして僕の最終見解を書き残しておこうと思う。「倫理的判断の根拠を問うことには意味はなくて、トロッコ問題にしろ池上クン事件にしろ、一時の熱情でこの駄文を書いたので、正直どうだっていいことなのだが、哲学者ピーター・シンガーの言葉を引用するならば、今回の問題提起は「直感的反応を正当化するための間違い探し」にすぎないのだ。本当にそうだろうか。かのソクラテスの「吟味されない人生に生きる価値はない」という言葉は間違いなのだろうか?社会学者クリスチャン・スミスなる人物は過去に、若者の倫理意識に関する調査結果を発表して議論を呼んだ。十八歳から二十三歳の若者たちの多くが、倫理的問題に対して明確な(筋の通った)思考を持ち得ないことが判明したのだ。スミスによると、三十%の若者は極端な相対主義をとっているらしい。たとえば、自分では盗みをしないけれど、仲の良い友人が盗みを犯しても何ら批判しないという。「そういうのは自己責任だから」というのだ。問題は、そうした態度の是非ではなくて、スミスが危惧しているのは、倫理的問題の筋道立てて思考する能力の欠如だという。スミスの質問にはこんなものもある。「奴隷が禁じられる前の時代において、奴隷を所有することは倫理的に正しい行為だったのだろうか?」それに対して「違う時代の人の考え方や行動を判断することはできない」と解答した人が一定数いたらしい。熟慮した結果ではなく、単に明確な判断を避けているように思える。スミスによると、こうした倫理意識のあやふやさは、多様性を重視する学校教育のネガティブな側面だという。異なる視点や文化に対する理解をより深めようとした結果、価値の相対化が行き過ぎ、はっきりとした価値判断ができなくなっているのだという。とはいっても、若者の行動が昔よりも倫理的に堕落しているというわけではないらしい。それをいえば昔の奴隷所持者は、奴隷制度をはっきりと肯定する価値観を持っていたはずだ。筋道立てて奴隷制度の正しさを雄弁に語る人もいただろう。だとするならば、やはり倫理について思考することに意味はないのだろうか?他方、こういう見方はできないだろうか?もしもこうした思考実験が存在することなく、ただ各々の直感のおもむくままに判断をしていたのならば、私たちの結論はまったく違ったものになっていたのではないだろか。現実の問題を分析し、思考実験との相違を注意深く検討することにより、よりよい判断が可能になるのではないだろうか?トロッコ問題はたしかに極端なシナリオかもしれないが、それを現実と比較して吟味することにより、今の現実の見え方は確実に違ってくるはずだ。たとえ目の前の問題とあまり似ていなかったとしても、「最大多数の最大幸福」対「個人の権利」という構図を知っておけば、より的を射た議論が可能になるはずだ。深い思考は時に、当たり前に思えた世界のまったく違った姿を見せてくれる。奴隷制度の廃止は、ある種の直感が覆された好例だろう。また現在、結婚に対する直感的な見方が大きく変貌しようとしている。平等や公正という観点から、同性婚を認めようという動きがどんどん広がりつつある。あなたの目の前にも、いつか暴走する路面電車が迫ってくるかもしれない。どう決断しどう行動するかはあなたの自由だ。だが決断の理由を訊かれたら、明確に答えを準備しておいたほうがよい(あ、この「よい」というのは「得策ですよ」っていう意味です)。

 

…な~んて小難しいことをこの前考えた。