12/17は二作の演劇を観劇してきました。

まず昼間は「人を斬らぬ刀」、夜に「おもちゃのキセキ」

 

今回は「人を斬らぬ刀」の感想から。

本作は本物の居合剣術家と和太鼓演奏家のコラボ企画で、タイトル通り今の世に人を斬る武器である刀と、その技術である剣術は必要か?というテーマを追求した作品です。

実話を基にしたノンフィクションのエピソードで、門外不出の掟に縛られた剣術の世界に危機感を抱いた一人の剣士が剣術の啓蒙を試みて、とある神社で奉納演武を行うことになったのだけど、それに宗家が猛反発して・・・というストーリー。

公演自体は会話劇が中心で派手な殺陣も立ち回りもありませんが、冒頭とエピローグでの和太鼓と連携した緊迫感溢れる真剣での演武はかなりの迫力がありました。

登場人物は・・・

師範

衰退する剣術界の現状に危機感を感じ、奉納演武を思い立った人物。江戸時代から続く流派を真から愛し、それを誇りに思っているので頑なな一面がある。

 

大川源次郎

師範の所属する流派の宗家。門外不出の技を披露しようとする師範に猛反発してやめさせようと押し掛けるが、危機感を感じているのは師範と同じでもある。

石野直子

今回の奉納演武を企画したディレクター。学生時代に殺陣をやっていた。宗家と師範、そしてプロデューサーとの間でジレンマに振り回される。

 

峰山卓也

石野の学生時代の先輩で師範の弟子。彼の考えに共感してあの手この手で必死に宗家を納得させようと頭を悩ませるが・・・

 

菊池元哉

企画を取り仕切るプロデューサー。剣術に関してはほとんど無知に等しいが大川の無理難題をどうにか凌ごうと頭を悩ませる羽目に。プロとして仕事には忠実。

 

彼等の主張は三者三様だが全てが正論である。

師範は衰退する一方の剣術に新しい息吹を吹き込むため

大川は流派が商業主義に陥ることで堕落することを防ぐため

菊池は準備万端の状態でのドタキャンという最悪の展開を防ぐため

 

剣術とはあけすけに言えば人を殺すための技術である。

戦国乱世が終り、江戸時代に入ってからは剣術は武士の精神修養と鍛錬の為の武道となったが、経緯はどうあれ刀を抜いて戦う機会は皆無ではなかった。

だが明治維新を機に大半の剣術は姿を消した。僅かに残された流派もごく一部を除き、先細りが進む一方だった。

剣術の世界は狭い。それは横の連絡が密というメリットがあるが、それは世界が縮小を続けているという裏返しでもあった。

その世界の頂点に立つ諸流派の宗家の人々もそれは自覚していた。しかし代々続くしきたりを破る事を過剰に恐れて自縄自縛になり、誰もが思い切った行動に出る事を躊躇っていた。

 

「今の世に刀は必要か?」この最も難しい質問に明確な答えを出せる者はいなかった。

その答えはイエスでもあり、ノーでもあるからだ。

明治以来、剣術家たちはあの手この手で生き残りを図り、辛うじて平成のこの時代まで生き延びてきた。だが伝統を守る事は高潔な精神性を維持すると同時に柔軟さと刷新の意思を奪い、その果てに待つのは衰弱死である。

 

それを危惧していたから大川は激論の末、「見なかった事にする」という事で妥協した・・・のだがその上の宗家から横槍が入り、結局奉納演武を中止せざるを得なくなってしまう。

その危機を乗り切ったのは現代が育てた「殺陣」だった。

偉いぞ!直子ちゃん!

 

エピローグ、師範は終始無言で流派の奥義を駆使し、用意されていたものの、使われずじまいに終わった巻き藁をことごとく斬り倒す。

そこに込められたのは無念か憤激か・・・

釈然としないストーリー展開に現代における伝統のあり方をが何なのかという疑問を考えさせられる作品だった。

 

次回は「おもちゃのキセキ」です。