(2013年4月6日に記す)

 

 

たんたん評論「芸術的価値と短歌界システム」

 

 

 詩歌の制作者が未だ児童生徒であれば、その詠む歌を捉まえて「未熟」と思うことはあるだろう。しかしながら、「芸術的価値」判断に基づいて「良い」やら「悪い」やらといった判断を下すことは決して有り得ない。

 

 なぜなら、彼らは「芸術的価値」を未だ知らないからである。もしも、「芸術的価値」を習った上でなお、それが無いものを提出したら、そこで初めて「悪い」と認定すればよい。

 

 

 ただし、「芸術的価値」とは一体何であろう。残念ながら、短歌の世界にはそれが書かれた資料が無く、また、それが頭の中にある短歌の神様のような人も存在しない。

 

 ただ、私たちは一般的に、その歴史と伝統において人口に膾炙し、広く知れ渡っているうたに芸術的価値を見出す。児童生徒はそれらのうたを学校で習い、それらから芸術的価値を自ら感じ取るしか無い。すなわち、芸術的価値とは「現在まで広く一般に伝えられた作品に共通する何らかの特徴」であろう。

 

 

 言い換えると、多様化する現代社会は一部の人間の意思に左右されず、いかなる者がいかなるうたに「芸術的価値」があると主張しようとも無意味である。

 

 例えば、あれほど脚光を浴びたサラダ記念日の歌集を購入した者であっても、四半世紀が経過した現在において、あの(サラダのうた)を正確に思い出せる人は僅かしかいないだろう。ましてや、その他の現代短歌なぞ推して知るべしである。

 

 

 さて、2012(平成24)年度の「短歌研究」新人賞の選考状況を同誌同年9月号の文面にて確認した。本来は、短歌自体の中身を、加藤治郎(1959-)や穂村弘(1962-)をはじめとする選考者それぞれの知識と経験等から培った「芸術的価値」に基づいて、粛粛と評価すれば良いだけである。

 

 ところが、彼らが判断したものは「作品一連の芸術的価値」や「歌人自身の芸術的才能」よりも、「フクシマ」や「原発」等の「短歌の対象自身が持つ特性」だったようだ。

 

 今回の場合では、東日本大震災という悲劇性や話題性等といった副次的な要素を判断基準の中心に置き、そうした「短歌界」におけるシステムが望む作品を一等賞としたことが読み取れる。

 

 

 この所謂中堅どころの歌人たちが岡井隆(1928-)や永田和宏(1947-)の次代を牽引する気概を持っていたとしても、上述した業界内部の特殊な慣習に囚われていては、短歌を文芸の地位に引き戻すことは難しいだろう。そして、外部の批判を受けない組織の必ず腐り行くことは、短歌界とて例外では無い。

 

 敢えて言えば、短歌界システムによって選ばれたものに「芸術的価値」が有るかどうかは、授けられたメダルによって担保されない。それは、「短歌の歴史と伝統において人口に膾炙し、後世まで広く知れ渡るかどうか」によって判断されることだろう。

 

 

 私は、仏文学者の桑原武夫(1904-1988)が戦後に発表した「名無しで並べられた高名な俳人と素人の作品を大衆が正しく判別し得ない」という指摘について考えている。ただし、彼は「俳人の芸術性」を疑ったのではなく、逆に「大衆に正しく評価する見識が無いこと」を指摘したのであろう。

 

 それに答える「大衆化」の方法として、小説のような(一握りの作者+多くの一般読者の獲得)と、詩歌のような(作者=読者の拡大)が図られてきたが、ビジネスとしては前者が正しかったことは明らかである。

 

 

 今回の角川学芸や短歌研究における受賞者を見ると、次席以降は無所属も多く見受けられる。受賞者が結社所属ばかりでは、広く一般読者からの応募が見込めなくなることを恐れたのであろう。

 

 それでも、一等賞やその他多くは結社に所属する者が占め、「結社にあらずんば」というスタンスが垣間見える。これは、これまでの「短歌界=一般大衆作者兼読者」の世界から方針転換して、その他の文芸界のような「短歌界=結社親子相伝のプロ歌人+多くの一般読者」を目指そうとの宣言だろうか。

 

 

 しかしながら、大衆に正しく評価する見識を広める努力を怠った現状で、このようなある種の予定調和的な態度を取るのは、歌壇崩壊を加速させる。すなわち、(少数の歌人=読者)から(極少数のプロ歌人+極少数のファン)へと変わるだけであろう。

 

 

 それにつけても、短歌は難しい。それでも、短歌は明るく楽しく、そして、素晴らしいものだ。

 

クローバー