たんたん評論「誰でも大震災を詠える」

 

 

 角川文化振興財団様が発行する短歌総合誌「短歌」の2026年7月号を読む。今回は、和嶋勝利氏が執筆した歌壇時評「短歌は東日本大震災をどのように表現してきたか」を採り上げよう。

 

 

 さて、最初から重箱の隅を突くようで大変恐縮だが、今回採り上げた時評のタイトルは日本語としてちょっぴり可笑しい。つまり、「短歌は」とあれば、当該一文の主語が「短歌」であることは間違いない。ところが、述語が「表現する」であるから、本来は「人間」が主語でなければならないはずだ。

 

 ちなみに、このタイトルの趣旨をブログ主が想像すると、例えば、「私たち日本人は東日本大震災を短歌においてどのように表現してきたか」のように書くだろう。ただし、元のタイトルの音数が短歌定型の三十一音の一方、変更後は四十五音にも膨らむのはスマートではないし、国籍差別と騒ぐ者も居るだろう。

 

 

 なお、「短歌」という存在を擬人化して眺めれば、元のタイトルでも十分に通じるだろう。ただし、擬人化うんぬん以前に、例えば、「短歌」を「歌人や短歌愛好家等の短歌業界関係者」と読み替えた方が、話が早いことだ。

 

 つまり、今回のテーマを簡潔に言えば、「歌人等は大震災をどのように取り扱ってきたか」ということだろう。筆者は大震災に係る短歌を取り扱った二つの書籍をもって、こうした震災詠の特徴等を指摘しているようだ。

 

 

 さて、上述したように今回の時評のタイトルの意図を推測すると、時評で対象となっている「人間」には二通りしか居ない。一つは「短歌業界において中心的な役割を果たして存在している(いた)歌人」であり、もう一つは「大震災を体験した一般の短歌愛好家」である。

 

 言い換えると、著名な歌人でもなく、震災被害を受けた当事者でもないブログ主のような一般の短歌愛好家は、今回の考察に含まれない。なぜなら、現代短歌業界においては、「作者が実際に体験した事実に基づいて素直に詠う」といった写実が高く評価されるからである。

 

 なお、こうした思想信条は主に短詩型の分野において広く散見されるが、ブログ主はこれを「経験主義」と呼んでおり、短歌の芸術的な進歩発展の妨げと見做している。ただし、短歌教室に通うシロートの体験談もどきの日記歌を褒めるには、こうした態度で居た方が講義を進め易いことかもしれない。

 

 

 また、大震災を詠む者の特徴の一つとして、これがその他の天変地異等とは或る点において異なることが非常に重要である。言い換えると、それは関東大震災を未だに詠い次ぐ者は居らず、また、近年の日本国内で発生した気象被害や大量殺傷事件等を詠い続ける者も居ない理由でもある。

 

 それは、この大震災には原発事故が伴っている点だ。

 

 

 先の大戦時における米軍による広島長崎の原爆投下の非道を眺めて、反米左派の人々の中には「反核兵器」から「反原子力」への思想を引き継いできた者も多く居るだろう。

 

 そうした際に、他の天変地異とは異なり、東日本大震災には原発事故が付随したことから、「ヒロシマ・ナガサキ」の連想から被災地を「フクシマ」なぞとカタカナ書きして詠う者も居たようだ。

 

 こうして純粋に大震災の犠牲者を追悼するよりも、反原発から反米・反親米与党へと世論誘導するには、大震災よりも原発事故を主眼に詠い続けることが、現代短歌業界で広く活躍する反戦左派の皆さんにとって都合が良いのだろう。

 

 

 ちなみに、ブログ主も大震災をテーマにいくつか詠んでいる。それらをここに紹介しよう。

 

波に消えて帰らぬ人を松島の海に今年も春は来にけり      /ブログ主

幾年もまた幾年も見返せど写真の中では大きくならぬ

今はただおじさんとでも呼べばよい 幼き心を無理には開かじ

幾たびもあきつに波は立ちぬとも人の想いは流せざりけり

 

音も無く黒々しきが押し寄せて科学技術を包みて壊す

陽は昇り陽は落ちるとも人里に交わす声無し 夢であれかし

春風のついぞそよとも吹かざれば野良牛馬も冷たかろうに

今は天の香具山に立つ霞雲よ みちのくへこそ春を伝えめ

 

 

 こうして、著名歌人でもなく、震災当事者でもなく、そして、反戦左派でもない、単なる一人の日本国民のブログ主でも、誰でも大震災を詠えるだろう。経験主義に陥っている関係各位のご賢察を願おう。

 

 

 それにつけても、短歌は難しい。それでも、短歌は明るく楽しく、そして、素晴らしいものだ。

 

クローバー