たんたん日記「聖人君子原理主義に反対する」

 

 

 2024年3月11日現在、自民党青年局という組織におけるセクシーダンサー問題が報道されている。ただし、ブログ主に言わせれば、こうした議論の多くは職業差別意識に基づいている。

 

 言い換えると、それがサラリーマンだろうと公務員だろうと、プライベートな時間において、自分の貰った給与を何に使おうと本人の自由である。もしも、公党の懇親会であっても業務に係わりの無い集まりならば文句を言われる筋合いはない。

 

 

 もしも、有名な夜のアトラクション辺りに行ったならOKで、他方でセクシーダンサーを呼んだら不謹慎とクレームを付けるのは、明確な職業差別と言わざるを得ない。性的なサービスに対するチップも、彼女たちの生活の糧の一部のはずだ。

 

 いわゆるモリカケサクラから現在の裏金に至るまで、政治的な思惑をもってマスコミや野党等の敵対勢力が自民党の醜聞を騒ぎ立てる。ただし、予算審議はそっちのけでゴシップ週刊誌のように振る舞うばかりでは存在価値がないだろう。

 

 

 さて、世の中には倫理道徳というものがある。これは人であれば、それに基づいて生きることを推奨される理屈や守ることを求められる規範と言われている。もちろん、洋の東西によって、具体的には人々が信奉する宗教やそれが生まれ住む国に応じて内容が異なる。

 

 それらは例えば、豚や牛を食べることや、酒を飲むことや、子供を産むことや、男女が付き合うことや、あるいは、為政者に唯々諾々と従うこと等である。つまり、倫理道徳は地球上において一意に定まってはいないと言えよう。

 

 

 我が国においては伝統的な神道や各種の仏教を信じる者が多いことから、そこに謳われた内容に沿って行動するケースが多いだろう。もちろん、日本も近代民主主義国家の一つであるから、憲法を持ち、様々な法律が在る。日本人は日本国憲法や法律に則って行動すべきであろう。

 

 ただし、其処に記述された罪を犯せば、それに応じた罰を受けることはあっても、逆に何かをすれば必ず褒められる訳では無い。もちろん、他人から褒められることを生きがいにする者も居るだろうが、それは人生を生きる上で必須では無い。

 

 

 ところが、我が国は隣りの大陸や半島の影響を受けて、儒教朱子学という考え方もある。ブログ主に言わせれば、この思考方法は現在における全体主義的国家観に繋がるものであり、その教えは端的に「仁義礼智忠信孝悌」という漢字八文字で呼ばれることが多い。

 

 例えば、「滅私奉公」という「私利私欲を捨てて公に尽くす」思想を聞いたことがあるだろう。これをもって倫理道徳とうそぶく者が我が国には未だに存在する。なお、こうした思想は明治維新をもって、少なくとも先の大戦の敗戦をもって否定するべきであったが、そうした総括をせずに現在まで来てしまったようだ。

 

 

 そして、東日本大震災から何年経っても、幼い児童生徒を掴まえて、亡くなった家族や友人を助けることができなかったことを「自分のせい」、つまり、己の到らなさや力不足と言わせることが、メディアの多くにおいて横行している。

 

 これは儒教の「仁」「義」あるいは「孝」を倫理道徳と定めて、そうした在り方を強要するように見える。そこで、ブログ主はこうした風潮について、敢えて「悪である」と指弾するとともに、断固反対するものである。

 

 

 台風や干ばつや噴火といった自然の営みによって生じる災害を無くすことはできない。もちろん、被害を最小限に食い止めることはできるかもしれないが、台風や日照りをそもそも生じさせないことなぞできる訳が無い。なぜなら、人間は神様では無いからだ。

 

 さらに、地震や津波などが発生した際に、人にできることと言えばただ一つ、「逃げる」ことだけだ。

 

 

 もちろん、人は自分独りで生きていける訳では無いから、家族や友人や先生や地域の人々と支え合いながら暮らしている。そうであれば、こうした災害に際しても、自分だけでは無く、出来る限り多くの人々が助かってほしいと願い、そして、多くの人を助けたいと思うだろう。

 

 しかしながら、繰り返しになるが、人間は神様では無い。漫画に登場するスーパーヒーローも現実の世界には居ない。言い換えると、人間の能力には限りがあるのだ。このようなことは、成人になるまでに世間を習った者であれば、誰でも知っているはずだ。

 

 

 例えば、或る者の自宅が火事になって、残された家族を助けに行くと決断したとしよう。その結果として、自分も家族も助かるかもしれない。あるいは、自分も家族も助からないかもしれない。

 

 なお、それをもって判断の是非を述べるのは単なる結果論に過ぎない。ブログ主は人生に必然なぞ無いと考えているので、いずれの結果も運命と見做す者である。

 

 

 ところが、こうした非力な人間の存在を所与としながら、抗うべくもない自然の猛威を前にして、聖人君子なぞと自称する者が頭で考えたような行動規範を、更に非力な児童生徒に押し付けようとするなぞ言語道断である。

 

 自分の命があってこその自分の人生であるから、それを身代わりに他人を助けようなぞといった態度は偽善に過ぎない。

 

 

 よしんば他人が助かったとして、もしも、彼/彼女を助けた者が犠牲となった場合に、彼/彼女がそれを負い目に感じて、犠牲者の家族等と一生向き合い続けるなぞ愚の骨頂である。

 

 また、現在の我が国においては、自らを鍛錬、修練して自力を高めるやり方を勧める宗派が優勢なのかもしれない。そして、功徳を積めば極楽が確実で、現世利益も得られるかもしれない。

 

 

 ただし、ブログ主は思う。人は弱い。善いこともするが、悪いこともする。そして、自分に正直に、素直に生きていても、目に見えないものの力を信じれば必ず救われるだろう。

 

 なお、ブログ主は宗教を信じてはいないが、親鸞の他力本願は宗教らしくないので理解することができる。

 

 

 震災のみならず、様々な自然災害によって、あるいは、犯罪によって、自分の身近に居た家族や友人を亡くされた際に、それを己のせいと考える事は無益である。

 

 なぜなら、人智を越えた災いに対抗できると考えること自体がおこがましいことであり、あるいは、自分と家族友人のいずれも天国に召される可能性があったとして、いずれが選ばれるかは全く神のみぞ知ることであるからだ。

 

 

 今は亡き家族や友人を嘆き続けて、無為に日々を過ごすことなぞを、誰も望んではいない。そして、生き延びた者にそうした悔恨を強いて、私利を得んとするような者どもの企みに騙されてはいけない。

 

 亡くなられた家族や友人たちはあなたが前向きに生きることを、生きたいと思って生きることができなかった者たちの分まで明るく楽しく元気よく暮らすことを、きっと望んでいるに違いない。そう信じて生きることが、なによりの供養である。

 

 

 それにつけても、政治は難しい。それでも、政治は明るく楽しく、そして、素晴らしいものだ。

 

クローバー