たんたん評論「日記短歌からの脱却」

 

 

 ブログ主は短歌結社水甕様のウェブサイトも毎月楽しみに眺めている。それにしても、同結社に所属している歌人の皆さんが、自分が所属している結社の名前を「漢字」ですらすら書けるなら、それだけでブログ主は敬意を表するものである(笑)。

 

 

 それはさておき、2024年1月号のテーマ評論は岸本瞳さんが「短歌は何ができるか」というテーマで執筆されていた。ブログ主なぞにはこのタイトルの言わんとすることが分かりにくい。それでも、恐らくは戦後ずっと「一般大衆に向けて左翼リベラルの思想信条を訴えることで社会変革を促すこと」ができれば嬉しいと思っている人が多いだろう。

 

 なお、文芸をプロパガンダの道具としない場合には、ブログ主ならば「短歌愛好家を結社や歌会に集めることができる」と解答用紙に書くだろう。文芸のみならず、スポーツや趣味においても、それらは少なくとも「人が集まるきっかけや場を提供する」ことができるはずだ。

 

 

 また、同月号の歌壇時評は木下のりみさんが「短歌の読みについて考えた」というテーマで執筆されていた。そこでは、服部真里子たち若手歌人と上記評論にも登場する小池光たちベテラン歌人との対立が取り上げられている。

 

 ちなみに、ブログ主は上記の対立が生じた2015年5月当時に、上記時評で取り上げた服部の歌を読んでいた。その評論「(水仙と盗聴)のうた」を以下再掲しよう。

 

 

(ここから)

 

 塔短歌会様のウェブサイトに、大森静佳(1989-)が毎月執筆している短歌時評が掲載されている。直近の2015年5月号の時評では、服部真里子(1987-)の制作した連作を取り上げて、それらに対する読みについて述べている。

 

 そこで、ブログ主も次の作品を試しに読んでみようと思った次第である。

 

水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水/服部真里子「塩と契約」

 

 

 なお、ブログ主は手元に何の資料も持ち合わせていないので、以下は同評における大森の記述に従う。

 

 服部の制作した掲題は、角川「短歌」様の四月号の特集において、若手歌人の一人として選ばれた作者が寄せた七首中の一首である。そして、これをベテラン世代の小池光(1947-)が批評している。

 

 さて、小池の批評や大森の読み、そして、小池の評に対して大森が述べた意見等の詳細は、元サイトをもって必ず確認されたい。

 

 なお、作者と(従来の不特定多数の)読者の間に「共有するもの」を要求する小池の考えに対して、若手歌人を中心に、特定少数の読者層を意識した詠いぶりを志向しているようだ。

 

 これは、2015年5月29日付けたんたん評論「わからない歌~」においてブログ主が勝手に解釈したところの、野口あや子(1987-)の主張でもあろう。

 

 ブログ主が思うに、これと同様な趣旨で、大森は「その「共有するもの」の軸の統一が、意外なほど難しくなっているのかもしれない」と述べたのだろう。

 

 もちろん、この一文には「現在の短歌界では」が省略されている。更に、奥歯に挟まったモノを取れば、「短歌の評価基準を統一し、それを老若の世代を越えて共有することは、凡そ不可能である」と聞こえる。

 

 例えば、ベテランの演歌歌手がAKBの歌を唄うとする。初めから唄えないとは言わずに、なんとか自分なりの解釈で唄うだろう。ただし、そうした無理矢理な有り様は、演歌とJ-POPアイドルのファンのいずれからも望まれる姿では無い。

 

 

 前置きが長くなった。それでは、服部が制作した掲題をブログ主が出来る限り詳細に解釈すれば、凡そ次のようになる。

 

「作者の部屋に、水仙の花が花瓶に生けてある。それは恐らくラッパスイセンであろう。

 

 例えば、旧日本ビクターの犬が蓄音器のホーンに耳を傾けている姿のように、水仙のラッパのような花から、どこから何かの音が聞こえてくる。

 

 実は、もう一つの水仙の花瓶が何処か別の場所に置いてあって、其処での会話がまるで電話のように伝わって、水仙の花から聞こえてくるのだ。それは、まるで盗聴のような有り様である。

 

 ところで、作者は人間である。水仙の花が生けてある花瓶に満たされた水のように、人間の身体もそのほとんどが水でできている。そして、作者が身体を傾けると、身体の中にある水が動き出して、身体を巡るのだ。

 

 なお、その水は、作者一人分のわずかな、取るに足らない量である。そして、作者もその程度の存在かもしれない。

 

 それでも、作者は少なくとも一個の存在であれば、作者の身体を水が巡る動きに応じたくらいの、世の中との係わり合いや世間における立場等も少なからずあるはずだ。

 

 そうであれば、作者に対する世評や、あるいは、より卑近で下世話な噂話等も生じるだろう。

 

 もちろん、作者はそうした世評や噂を盗み聞きしたいとも思わず、その気も無いのだが、作者が眺めている水仙の花のラッパから、雑音が聞こえてくる。

 

 もしも、それが単なる作者の空耳か、あるいは幻聴であるとしても、作者はそうした外聞に翻弄されて、再び、身を屈めて、耳を傾けるのだろう。

 

 そして、そうした作者の行動が、作者の身体を巡る水の動きがまた、次の世評に繋がってゆくことが繰り返される。

 

 それはまるで、海の水が蒸発して雲となり、雨が降り、川を下り、そして、海に流れ込むような循環の有り様である。(作者はそうした無限の、作者の意思では如何ともし難い状況から、抜け出すだろうか?)」

 

 

 以上がブログ主による解釈であるが、或る程度意味が通じるものと思う。ちなみに、連作のタイトルである「塩と契約」についてブログ主の解釈を示せば、塩はsalt=salary=月給=正社員のことで、契約は文字通り契約社員という言葉遊びである。

 

 これすなわち、現代社会において問題となっている労働者の二分化と解釈できよう。もしかしたら、服部はこれと同様な人間関係や立場に悩んでいるのかもしれない。

 

 

 それはさておき、掲題の修辞技法や表現手法についても、きちんと確認しておこう。

 

 まず、句読点を用いているが、これは「水仙と盗聴」が外的情景を述べ、これ以降が作者内部の状況を表していることを区分するためであろう。

 

 ブログ主なぞは、こうした際に一字空けを用いるが、句読点の方がより厳格に区切る意思を表明するのかもしれない。

 

 

 次に、「わ」音を三箇所で繰り返しているのは、頭韻を踏む意図であろう。なお、単なる「わたし」のリフレインならば、韻律を重視しただけとも言える。

 

 ただし、掲題のように、三回も繰り返すと、何やら人間のくどくどしい情念や、逃れ難い業(ごう)のような様も見えてくる。

 

 

 そして、結句締めの「水」は初句の水仙の「水」とのリフレインでは無く、締めから最初へ戻る意図であろう。なお、「わずかなる」と文語で記述した理由は、基本的には「わずかな水」では六音しか無いからだ。

 

 ただし、現代語で「わずかな水よ」と詠嘆したり、「わずかな水は」等と助詞を接続したりといったやり方もあっただろう。しかしながら、一首の最終の文字を「水」で締めなければ、初句の「水」へと循環しないのだ。

 

 

 以上がブログ主による修辞解説であるが、当たらずと雖も遠からずと思う。このように足りない想像力を働かせてあれこれと書き連ねれば、掲題も多少は浮かばれるだろうか。

 

 ただし、作品が読者に「理解」されることと、「評価」されることとは全く別物である。もしかすると、「何だか解らないけど凄い」ものが、本当は凄いのかもしれない。

 

(ここまで)

 

 

 ちなみに、小池がこれまでに数々の素晴らしい作品を制作してきたことはともあれ、当時に彼が「服部の歌がわからない」といった趣旨のことを総合誌という公の場で発した点で、ブログ主は彼の歌人としての在り方を全く評価できない。

 

 世の中の多様性を理解しない子どもなら未だしも、大人であれば、もしも自分の理解できない事物があったとしても、わざわざ「わからない」なぞと言うべきではない。言い換えると、「わかる人にはわかるかも」と達観して、コメントしないのが大人の対応だろう。敢えて言えば、それは己の想像力の無さを吐露するようなものだ。

 

 

 なお、「短歌すなわち日記」と見做し、この文芸を作者の聖人君子ぶりや清貧なさまや崇高さ等を訴える道具として使っている者が居る。ただし、こうしたやり方は文化芸術の世界においては短歌とエッセイくらいだろう。

 

 ゴシップ週刊誌の愛読者を除いて、他人の日記を覗き見たいと思う者なぞ、この世には少ないはずだ。歌人のみなさんがこうした「日記短歌」から速やかに脱却することを、ブログ主は心から願うものである。

 

 

 それにつけても、短歌は難しい。それでも、短歌は明るく楽しく、そして、素晴らしいものだ。

 

クローバー