たんたん日記「真の共生社会に向けて」

 

 

 本年2024年は米国で大統領選挙が実施される。恐らくはドナルド・トランプが四年ぶりに大統領に復帰するだろう。

 

 ただし、前回のような選挙不正の疑いが再び実施されれば、民主党候補が再び当選するかもしれない。なお、民主党がバイデンから若返りを図ろうとするならば、無党派層からも多くの支持を得るために、出来る限り早期に知名度のある候補に交代することをお勧めする。

 

 それでも、トランプの大統領指名を阻止することができなければ、米国において社会共産主義を標榜する一党独裁の全体主義のような権威に隷属し、国連やEU等の超国家主義/グローバリズムを信奉し、そして、世の中万事お金で解決しようとする拝金主義者たちは今度こそ、彼の地の民主主義社会を破壊した責任をとらされるだろう。

 

 それでは、2019年5月に発生した児童殺傷および犯人自殺事件を受けて、ブログ主が当時記したブログ記事を以下再掲しよう。

 

クローバー

 

 もうすぐ、六月四日がやってくる。ブログ主はこの世における絶対悪の一つとして「一党独裁の全体主義」を挙げる。なぜなら、自由と民主主義を愛する現代社会において、個人/一般市民の言論/表現の自由を守ることが最も大切であると信じるからである。

 

 もちろん、こうした絶対悪は大陸のみに留まらず、我が国のような民主主義国家にも散見される。それは凡そ「たった一つの思想信条を世間一般に強制し、それに従うことを求めるもの」であり、ブログ主はこれを「全体主義的同調圧力」と呼んでいる。

 

 これを頻繁に行う集団は現実に存在し、彼等は国家を越えた「地球市民」を自称することが多い。しかしながら、その実体は多様性を否定し、多文化共生社会を破壊するグローバリスト/拝金主義者に他ならない。

 

 また、大陸と同様に、欧州において国家を超越する権限を持つEUや、さらには国際連合も個々の国家を超越した存在である。そして、EUや国連の指図に無条件に従うことを求める者は、国家主義以上の「超国家主義」に基づく全体主義思想の持ち主である。彼等は統合域内における言動をたった一つのルールに従わせようとする。これも全体主義的同調圧力である。

 

 

 そもそも「全体主義とは何か」と言えば、個人に対する国家の優越を信奉し、さらに個人の意思を無視してあらゆる権限を国家に集中させることである。

 

 もしも、国家主義を伝統的な「右翼」と呼ぶのであれば、本来は社会の平等を目指す共産主義の皮を被った大陸の支配層あたりは右翼を超越した「極右」と呼ばれるべきだろう。

 

 他方で、国家権力から一般大衆を救済するポピュリズムは個人主義を愛する「左翼」に他ならない。現状のメディアの用語用法は、伝統的な定義からすれば凡そ間違っているようだ。

 

 

 また、先日朝の或る情報番組において、或るコメンテーターが凡そ「最近において可笑しな言動を見せた二、三名の国会議員が所属する/した政党も、これら個人と同じ思想信条を持つのではないか」と述べていた。

 

 ちなみに、特定の出自や民族等をもって個人を差別することをヘイトスピーチとすれば、彼の発言は方向性は逆に見えるが、実体としてはヘイトスピーチの「種」であり、差別の根源的思考である。これは例えば、或る日本人が他国で犯罪を実行した場合に、彼の国において「日本国民はみんな犯罪者」と吹聴することと何ら変わらない。

 

 

 大陸のお金に目がくらんだ拝金主義者たちは、よくよく考えれば現実的では無い「きれいごと」を並べ、自分たちの思想信条を絶対不可侵と夢想し、そして、従わない者に悪意のレッテルを貼って社会から排除しようとする。これは伝統的にはいわゆる「村八分」であり、現代で言えば社会の様々な組織における「いじめ」や「パワハラ」の実態である。もちろん、事は我が国のみならず、世界中で散見される。

 

 また、個人の自由意志に基づく言論や行動は全体主義的同調圧力によって異端視され、個人主義を愛する人々は社会から排除される。そして、主に利益を追求することを存在意義とする企業等の「大きな」組織の論理に圧迫されて、(それでも人はパンのみにて生きるにあらず)と心の中で呟く個人の「小さな」思いは潰される。

 

 

 さらに寓話において、美しい音色を奏でるキリギリスの才能を理解しないアリたちは、働いて金を稼ぐことにしか価値を見出さない。各自の持つ「オンリーワン」の個性を認め合う多文化共生の崇高な理念に反し、「全員がナンバーワンになろう」といった矛盾を押し付ける競争社会における全体主義に染まったアリたちは、キリギリスに冬の食べ物を与えない。そして、愚かなアリたちは翌年の夏を迎えて、キリギリスの奏でる美しい音色を聞けないことに気付くだろう。

 

 こうして全体主義的同調圧力は個人が一人一人の思考心情や思想信条をもって自由に生きることを妨げる。もちろん、個人の自由には責任が伴い、公共の福祉に反する場合には法をもって罰せされることもあるだろう。しかしながら、声だけは人一倍大きな全体主義者たちと生き方が違うというだけで、静かな一般大衆の生きる場所を取り上げられる理由なぞ無い。みんなが違って、みんなが良いはずだ。

 

 

 ちなみに、米国では困窮する中間層から支持されたトランプ政権が誕生し、旧来のメディアによるフェイクニュースを暴き続けている。また、フランスでは国内各地で、昨年末からグローバリストであるマクロン政権に対して、黄色いベストを着た民衆による抗議活動が続いている。

 

 そして、先日のEU議会選挙ではメディアの言うところの極右/EU懐疑派、正しくは下級国民に支持された各国の歴史と伝統を愛する政党群のEU改革派が議席を伸ばした。ブログ主は従来からEUの終焉を想定しているが、もしも、それが生き残るとしても、個々の国家の自決権を尊重する緩やかな連合に改善されることだろう。

 

 

 それはさておき、権威やお金を忖度し、その顔色を伺って阿る一方で、それにこびない「異質」を排除するのは、人が生きるためには致し方の無いことかもしれない。なお、こうした行動をとる組織は左右の思想の違いに拘らないどころか、そうした思想信条に基づく集団ほど排他的である。特に民主主義社会に暮らしながら大陸のお金に靡くような者は恥を知るべきだ。

 

 ただし、こうした全体主義的同調圧力が蔓延することによって、社会は個人主義を愛する人々を排除し、基本的に無害な人々の孤立化を招く。そして、この世に居場所が無いと感じた者は、今回のケースに見られるテロまがいの自殺を決行するのかもしれない。アメリカにおける大量殺傷事件は決して銃社会のせいではなく、刃物でもクルマでも起こり得る世界的な課題である。

 

 

 なお、人と時と場所を特定するものでなければ、不特定多数に対する無差別テロは防ぎようが無い。したがって、我々はこうしたテロまがいの自殺を起こさせない社会を目指すとともに、罪の無い個人を排除するような全体主義的同調圧力を撲滅すべきである。

 

 古き良き日本の「全ての人に居場所がある」社会が国際的に比較的安全だったならば、諸悪の根源は、国際化の名のもとに金儲けに走るグローバリズムの浸食と言わざるを得ない。関係各位のご賢察を願おう。

 

 

 それにつけても、社会は難しい。それでも、社会は明るく楽しく、そして、素晴らしいものだ。

 

クローバー