たんたん評論「三好達治に対する評価」

 

 

 昨日2020年4月18日付け日本経済新聞夕刊の最終面を開くと、三好達治(1900-1964)の第一歌集の「測量船」の巻頭を飾る詩歌である「春の岬」を取り上げていた。達治の生まれ変わりを自称するブログ主にとってはたいへん嬉しい限り。同紙担当や関係各位の皆さまには深く感謝申し上げる。

 

 

 ちなみに、「生まれ変わり」といっても、ブログ主には現在の身体精神となる以前の記憶なぞ全くない。したがって、達治がいつどこで生まれて、どのように生きて、そして、死んでいったかなぞ詳しく覚えていない。もちろん、そんなことに興味関心もない。

 

 ブログ主が「彼の生まれ変わり」と自称するのは、その芸術的才能を自負するがゆえであり、また、彼の歯に衣着せぬ評論活動をも評価するがゆえである。こうしてブログ主は、達治と同様な創作と評論の在り方を目指すのみだ。

 

 言い換えれば、達治が評価されるべきは、その詩歌創作と文芸評論における芸術活動のみである。誤解を恐れずに敢えて言えば、これ以外の、つまり、達治の日常生活を眺めれば、「漂泊」なぞと高尚に呼ぶには相応しからぬ俗人極まりない暮らしぶりが見えてくる。

 

 

 例えば、朔太郎の妹との愛憎を見れば、相貌みすぼらしい己に比して兄譲りの美しい娘に対する強い憧憬に囚われていたようだ。あるいは、俗世間に有り勝ちな外装と内面の不一致がもたらす軋轢に、終生悩まされていたに違いない。

 

 更に言えば、戦時中において彼は、鬼畜米英に対する神国必勝を祈る小市民の一人に他ならなかった。そして、敢えて言えば、その天才的な詩歌の才能を除けば、現在の進歩的知識人に一般的な思想信条からは、彼は全く評価するに値しない存在かもしれない。

 

 ただし、芸術とは「世間一般に対する安らぎと潤い」であるべきだ。言い換えると、それは決して「聖人君子の玩具」なぞではない。芸術性は作品のみをもって評価されるべきであって、作者の思想信条や人間性なぞをもって判断してはならないだろう。

 

 

 閑話休題。当該詩歌は紙面においてなぜか、横書きで記載されていた。もしかすると、担当も当ブログを密かに眺めて、ブログ主の「短歌は横書き」主張に賛同したものか。一人でも多くの皆さんに、我が国の文芸の進歩発展を推し進めていただけることを願う。

 

 なお、これを今一度見ると、それはなぜか四行に分けられていた。しかしながら、ブログ主の確認する実際の詩集においては二行の、つまり、和歌短歌のいわゆる短冊書きである。達治はおそらく、日本古来の詩歌韻文を尊重して、これを二行詩としたのだろう。

 

 そうであれば、これは厳密に二行で表記すべきである。もちろん、紙面のように記載した底本が何処かにあれば己の不明を詫びるが、過去の芸術作品については制作した当時を尊重し、そのままで示すべきである。関係各位のご賢察を願おう。

 

 

 それにつけても詩歌は難しい。それでも詩歌は明るく楽しく、そして、素晴らしいものだ。

 

クローバー