(2014年12月25日に当ブログに掲載した文章を一部加筆修正して再掲する。)

 

 

たんたん日記「石刻遺訓」

 

 

 中国大陸において、夏や殷、周の古代から現在の共産党政権までを含めて、歴代王朝の帝位等の最高権力者は数多い。そこで、実在の人物の中から名君を一人選べと言われたら、当ブログの読者の皆さんは誰を思い浮かべるだろうか。

 

 例えば、漢の高祖劉邦や蜀の劉備、あるいは唐の玄宗かもしれない。ただし、それはちょっぴりマイナーであるが、ブログ主ならば迷わず北宋(960-1279)の初代皇帝である太祖・趙匡胤(ちょうきょういん。在位960-976)を挙げる。

 

 なぜなら、彼は千年以上も昔に、最近国内外において話題となっている「表現の自由」の原型のような事柄を子孫に言い遺したからである。

 

 

 趙匡胤がその遺言を宋王朝の歴代皇帝に守らせるために石に刻んだものが「石刻遺訓(せきこくいくん)」である。そこには、次に挙げたような、たった二つのことが記されていたという。

 

一、前の王朝である後周(951-960)の柴氏一族の面倒を代々見ること

 

一、言論を理由に、士大夫(現在における官僚、役人)を殺さないこと

 

 

 それは、西晋以降は前朝の一族を凡そ滅ぼしたり、帝位や裏の権力者の思うままに政事を動かさんとして邪魔な士大夫を消したり、といった因習を無くすためか。

 

 あるいは、唐末から五代十国の群雄割拠の時代にかけて戦火で乱れた世の中の有り様を変えるためか。いずれにせよ、趙匡胤は武門の出身でありながら、文治政治を進めようとしたのだろう。

 

 そして、政策の誤りで島流し等の責任を取らされることは在り得るとしても、決して命までは取られないルールが存在するらしいと知れば、王安石(1021-1086)や司馬光(1019-1086)たちも自由に発言し、思いきった政策を提案し、そして、実施することができたのだろう。

 

 

 残念な事に、彼が武器によらず言論を闘わせるような民主主義の先駆けとなってから千年以上も経つにも拘らず、それを暴力や破壊等の物理的な圧迫をもって脅かすような思考は無くならない。

 

 もちろん、虚偽をもって事物を不当に貶めたり、不確実な風説を流布したりすれば、そうした言論の自由はその是非を検証され、その結果に対する責任を必ず取らなければならない。なぜなら、「自由には責任が伴う」からである。

 

 ただし、凡そ正論を吐かれて都合が悪いと見るや、その意を汲んだ司法を使って一般の言論を封殺せんとする権力は抑制的であるべきだろう。諸外国はさておき、日本においては言論の自由が最大限尊重されることを希望する。

 

 

 ちなみに、特定の思想信条に基づく言論は制限されるなぞといった非対称性を持たせると、長期的には平等の精神を侵すことに繋がる。それは凡そ、いわゆる「結果の平等」を保証する場合のみに言論の自由を認める立場と言える。

 

 しかしながら、本来は「機会の平等」を担保すべきであり、個人の努力に応じて結果が異なるのは当然のことだ。

 

 言い換えると、みんなが一斉にスタートラインに並ぶことは在り得ても、同時にゴールすることを求めれば、個人の努力や創意工夫する意欲を失わせる。

 

 

 言論の自由が正しく行われないポピュリズムは必ずや、無責任と堕落をもたらすだろう。

 

 

クローバー