たんたん日記「比喩の功罪」

 

 

 文芸の世界には「比喩(ひゆ)」という修辞技法がある。比喩とは例えば、「AはまるでBのようだ」といった表現をもって、Aの有り様をBと関連付けてイメージさせるものである。

 

 なお、普段の実生活においても比喩に似たような表現が用いられている。ただし、それは比況(ひきょう)と呼ばれる。例えば、「タピオカはまるで丸い粒の形をした寒天のようだ」といったように、聞き慣れない事物をより身近な物に喩えて説明することである。

 

 他方で文芸における比喩は実生活上の比況とは異なる。それでは、詩歌の世界における比喩の例として、ブログ主がその生まれ変わりと自称する三好達治(1900-1964)の詩を示そう。

 

土 /三好達治

 

蟻が

蝶の羽をひいて行く

ああ

ヨットのやうだ

 

 

 この詩の趣旨は凡そ其処に書かれた通りに、「蟻が蝶の羽をひいて行く姿は、まるでヨットのようだ」と書けるだろう。ただし、この詩の目的はもちろん、蟻の有り様をヨットの形状をもって説明したものでは無い。もしも、近代の航海を知らない時代において、海を知らない村人が居れば、逆に「ヨットとは蟻が蝶の羽をひいて行くような様だ」と説明するかもしれない。

 

 こうして、身近なアリやチョウの様子から、大海原を優雅に泳ぐヨットに乗って遊ぶ世界へ飛躍することが、文芸における比喩の意義であろう。

 

 

 また、短歌においても比喩の例として、小池光(1947-)の若い頃の作品を一つ挙げよう。

 

いちまいのガーゼのごとき風たちてつつまれやすし傷待つ胸は

 

 

 小池作品の趣旨の一部分は凡そ「風はまるで一枚のガーゼのようだ」と言えよう。ただし、これは、実生活において「風」を「一枚のガーゼ」をもって説明するものでは無い。そして、達治の詩のように、或る事物の姿形から似たような事物を発想したものでも無い。

 

 すなわち、「風」は傷を癒すための「ガーゼ」のような役割を果たすものとして、作者において把握認識されているだろう。つまり、掲題の景色に限り、「風」は「ガーゼ」と同じ性質や用途等を持った存在なのである。

 

 

 以上のように、比況あるいは比喩は、実社会にも、そして、文芸の世界においても、多種多様な目的や効果を念頭に置いて広く用いられていると言えよう。

 

 ところで、文芸の世界において虚構や仮託の空想を繰り広げるだけであれば問題は無い(もちろん、それも程度の問題ではある)が、実社会において比喩を用いる場合には十分に注意する必要があろう。

 

 

 最近の国会において或る議員が黒塗りの書類を掲げて、それをまるで「のり弁」のようだと言ったらしい。白い紙が黒く塗りつぶされている有り様を見て、白いご飯の上に海苔が乗っかっている「のり弁」を思い付いたのだろう。

 

 なお、これは明らかに、上述した実社会においてタピオカを寒天に喩える比況では無い。なぜなら、書類はのり弁のように食べられないからだ。敢えて言えば、達治の詩の比喩に近い。

 

 ただし、これはもちろん、書類からのり弁を発想したといった芸術では無く、単に見た目が似ているだけのことだ。そして、それはもちろん、小池作品のように、存在理由を把握認識したといった表現でも無い。

 

 

 もしも、黒塗りの書類を比況するならば、ご高齢であれば「戦後の教科書」と言えば、たいへん解り易いだろう。なぜなら、両者はまさしく、凡そ同じ目的に基づいて実施された結果であるからだ。

 

 ただし、そのように比況するとGHQの行動を批判することに繋がり、物議を醸す可能性があるので難しいだろう。しかしながら、それが比況では無く、文芸の比喩のように認識されると、達治の詩や小池作品を読んだ際と同様に、「黒塗りの書類、すなわち、のり弁」といった連想が強く認識されるだろう。つまり、のり弁にネガティブな印象を与えかねないのだ。

 

 

 ブログ主は平日は子供のために食事を作っているが、休日はお弁当で済ませることがある。ただし、「済ませる」といっても、ブログ主の大好きなのり弁は安くて美味しいので、本当は毎日お弁当にしたいところである。こうして、ブログ主は、「のり弁」あるいは「のり弁当」等の名称をもって、コスパの高いお弁当を作っている企業から街のお弁当屋さんまでに、敬意を表する者である。

 

 また、給食が一般に普及していない高度経済成長時代においては、そして、今でももちろん、学校にお弁当を持っていくだろう。そうした際に、静岡辺りでは特産のかつお節削りにお醤油をかけて、それをご飯の上に乗せて、更にお海苔を被せたスタイルが、つまり、広く販売されているのり弁のそれが一般的であった。そうした懐かしい、愛すべきご飯の食べ方である。

 

 

 そうした状況において、凡そネガティブな存在である「黒塗りの書類」を比喩した先に「のり弁」を挙げるのは、のり弁を製造する企業やそれを喜んで購買する消費者に対して配慮の無い有り様である。敢えて言えば、些か失礼である。

 

 更にそれに乗っかって、調子に乗って、パナマ文書に似せた表現を披露するのも残念な気がする。敢えて言えば、ちょっぴりいただけない。そこで、今回の発言は「のり弁」に対する風評被害を招きかねないことから、こうした修辞を行った点について速やかに撤回することを、ブログ主は老婆心ながらお勧めする。

 

 

 国会は学芸会では無く、そこにおける議論は演技のセリフでは無い。それは国民の生活のかかった仕組みや法律を取り扱う場であり、そこでの議論は冷静かつ正確に行われるべきである。其処に芸術の世界における表現を奇を衒って持ち込んだりすれば、現実の世界に実害をもたらしかねない。配慮して頂ければ幸いである。

 

クローバー