週間イントラモエニア  

 寒い冬の楽しみは… チョコレート!!! 日本では冬の到来とともに様々な期間限定チョコが市場に出回り、乙女心をくすぐります。ああ、どうしてチョコレートはこれほどまでにおいしいのでしょうか。にきび、もとい吹き出物ができようと、どうしたってやめられない。今回はそんなチョコレートにまつわる小話をお届けします。
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 ここトリノ、ピエモンテはイタリアのチョコレート産業のメッカです。「イタリアのおやつ」の名を誇るヌテッラ(Nutella:チョコレートペースト)を産んだフェッレロ(Ferrero)社やカッファレル(Caffarel)社といった大企業から、バラッティ(Baratti)やゴビーノ(Gobino)にジョルダーノ(Giordano)など様々なチョコレート屋やカフェが点在し、訪れる観光客は子供に戻ったようにはしゃいでは、どれにしようと迷ったり、ほほえましいばかりです。中でもトリノの名物チョコといえば、細長三角形をしたジャンドゥイオッティ(上写真)ですが、その形は人形劇に登場しトリノの人々に最も愛され、カーニバルでは主役を誇るジャンドゥィアがかぶっている帽子の形だとか、ボートをひっくり返した形だとか。右に載せたパッケージ写真は、カッファレル社のものです。茶色のジャケット、黄色のベスト、緑のズボンにおさげというお決まりの格好をしたジャンドゥィアが、右手の手のひらにジャンドゥィアをのせて歩いています。足元にはトリノのシンボル、モーレの塔がお目見えです。小さくて見にくいですが、上から dal 1826 Caffarel  eccellenza piemontese (1826年創業 カファレル ピエモンテの美味)とあり、Gianduia 1865(ジャンドゥィア 1865)とあります。ジャンドゥィア1865年という文字から、1865年にジャンドゥィアの生産がはじまりまったと察することができますが、もう少し簡単にその歴史を覗いてみましょう。
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 カッファレル社の始まりは、トリノ郊外ヴァルドッコに位置する小さな皮なめし工場でした。ところが1826年、新しく経営者となったパオロ・カッファレッリ(Polo Caffarelli)氏の下、工場はチョコレート工場へと変貌を遂げ、以降チョコレート産業に従事することとなります。1852年、息子のイシドール・カッファレル(Isidore Caffarel)はカカオにへーゼルナッツを加えた新しいチョコレートを市場に出し、瞬く間に有名になりました。しかし当時、この新しいチョコレートにまだ正式な名前はありませんでした。(一応、ピエモンテ方言でbocconcino(一口大の食べ物)を意味するgivuという愛称はあったようです。)それはなぜでしょうか?

 1806年、ナポレオン一世は「大陸封鎖令」なるものを発令しました。それは、欧州諸国とイギリス間の貿易を禁止し、また欧州諸国間においてはフランスとの通商をのぞいては高い関税をかけることで、フランス経済を発展させようとした経済戦略の体制でした。こうして世界中に植民地を持つイギリスとの貿易が断たれた欧州諸国では、アメリカ大陸からの原材料が手に入らなくなり、中央アメリカや南アメリカでつくられるカカオもまた、高級商品となってしまったのです。「こりゃやばい。なんとかせにゃぁ…。」チョコレート産業で賑わいをみせていたトリノのお菓子屋は考えました。

 カカオの量を減らしつつ、なおかつ愛好家を満足させうるおいしいチョコレートをつくるにどうすればいいか。そこで浮かんだのは、ピエモンテ(ランゲ)でとれる良質のへーゼルナッツを加えることでした。自国の原料であれば高い関税がかけられることなく、安価で手に入るじゃないか、と。こうして、へーゼルナッツ入りのチョコレートが生産されるようになり、味の良さから、大陸封鎖令が解かれた1813年以降も、トリノではこのチョコレートが好んで飲まれ、そして食べられるようになりました。(注: チョコレートは、1828年、オランダのヴァン・ホーテンがカカオの油脂を取り除き、ココアパウダーとココアバターを作る方法を編み出すまでは、「飲むチョコレート」でした。)すなわち、へーゼルナッツ入りのチョコレートは、トリノのチョコレート愛好家の強い要求とチョコレート業者の知恵による苦肉の策として生まれたもので、それを指す特別な名前などなかったのです。

1852年、チョコレート業者ミケーレ・プロシエ(Michele Prochet)氏はカッファレル社のイシドール・カッファレル氏とともに、へーゼルナッツ入りチョコレートの製造に着手しました。原料を質量ともに厳選し、製造工程を均一化し、そしてまた、カッファレル社はイタリアで初めて機械を導入することで、(: 1802年にジェノバ生まれのBozelli(ボゼッリ) 氏がカカオペーストを細かくすり潰す水圧式の機械を開発しましたが、イタリアではカッファレルによって初めて導入されました。)より多くのチョコレートの製造を可能にしえました。ただし、この新しいチョコレートはなめらかでクリーミーなため、イギリスなどで行われ始めた型抜きはできず、成型に関しては職人の手によって11つ丁寧に、細長三角柱の形に仕上げられました。(: イタリアのチョコレート成型技術はかなり優れたもので、スイスのチョコレート業者もそれを学びにイタリアに来ていたほどです。) そして11つ紙に包まれたのです。(注: ペースト状のチョコレートをスプーンですくってできた形に着想を得たという逸話もあります。)チョコレートを1個単位で紙に包むというのは、現代に生きる私たちにとっては何の変哲もないことですが、当時それは世界で初めてのことだったのです。(注: 現在では機械が導入されています。)1865年、そのチョコレートをカルネヴァーレ(謝肉祭)でジャンドゥィアに仮装した者が市民に配って紹介し、それはジャンドゥイオット(複数形 ジャンドゥィオッティ)と名づけられ、トリノの名物となったのでした。

 
週間イントラモエニア  ナポレオンがいなければ、生まれなかったかもしれないトリノ名物。ナポレオンのせいで起きた経済混乱、そのおかげで生まれたジャンドゥィオッティ。今やお高いこのチョコが、そんな歴史を背景に生まれたとはおどろきでした。ところがナポレオンの「せい」&「おかげ」シリーズはチョコレートだけにとどまりません。次回はそのもうひとつのナポレオンにまつわるトリノ小話をご紹介したいと思います。(三千代)