1955年にピエル・パオロ・パゾリーニが発表した『生命ある若者』の中の、油で黒ずむ川や廃墟となったスポーツジムを通り抜け、ローマ弁で叫び声をあげる少年たちの姿は、まさにイタリアを感じさせるものです。
アニョーロは口のまわりに手をじょうご型にしてあて、呼びはじめた。「おい、アント!」
その仕草や、語尾を切断するその呼び声まで、目をつむれば汚いローマの街角が浮かんでくるようです。1949年、同性愛の嫌疑にかけられ教職を失ったパゾリーニは、母の故郷フリウリからローマへと移り住みました。そこで目にしたローマの貧民街の生活に感銘を受け、それを切り取り映画と小説にし、現代でもなおイタリアを感じさせる一つの指標となっています。その事実は、彼に確かな先見性があった、言い換えると、物事を俯瞰して処理する能力が非常に長けていたことを示しています。パゾリーニが描いたイタリアは、どこに行ってしまったのでしょうか。
そこで一つの提案として言わせてもらえるなら、ジャンフランコ・マルツィアーニの描くイタリアは、パゾリーニのそれに匹敵します。サレルノ出身のストーリート・ミュージシャンで、ブログで書いた文章が人気を博して出版するまでに至った、現代チックなプチ小説家。彼が今年発表した二作目の小説『inferno』(“地獄”の意)で描かれる落ちぶれミュージシャンの姿には、パゾリーニの時代から変化して進化して退化したイタリアを感じずにはいられません。
ゾーソ(Zoso)のライブは10時ちょうどに始まった。彼らのライブの先だって3組もの前座がライブをした。1組目のバンドは親の財布をズタ袋に変えただろう、すっげえ楽器を持ったガキたちで構成されたポップ・バンドだった。ボーカルがいちばん男前で、本気でブラッド・ピットに似てた。ただ身長が便器の高さほどしかなかった。指のところで切れているグローブを片手だけにはめ、英語なまりのイタリア語で歌を歌った。何を言っているのかわからないバラードで、聞き取れたのは「おれぇぇぇのハートはぁぁぁぁぁぁ」という部分だけだった。
2組目はそれぞれがエミネムの格好をした3人組。1人は皿を回し、2人はマイクだ。しかし機材がまったく動かず、30分間ケーブルをごちゃごちゃいじったり、PAとナイショ話をしたりした後、詫びを入れて挨拶して返ってしまった。3組目、つまり最後の前座は50過ぎのおっさんで、嫁ともう大きくなった息子たちを連れてライブにやってきていた。彼らは父親たちに、拍手しながらちゃちを入れていた。3曲やって、1曲はアメリカ、1曲はブルース・スプリングスティーンのナンバーだった。もう1曲はルーチョ・バッティスティのもので、特別ゲストとしてキーボーディストの娘がそれを歌った。ライブイベントは静かに終わってしまった。人がたくさん帰っていった。もう半時間たっぷりと過ぎたあとで、急遽決まったMCが、がらがらの会場にアナウンスを行った。「お待ちかね、ジェノバからやってきたゾックス(Zox)の出番です!」読み方さえも間違っているではないか。ジャコモは床すれすれに顔を近づけ、ドライバー兼八百屋のギタリストにOKサインを送った。バンドは、すでに長すぎる曲を超ロングバージョンでお送りしてきた。ライブというよりは、サウンドチェックのように思えた。ジャコモ、セルジオ、カウンターについてる何人かの暇人、べろべろに酔ったルーマニア人1人に、クロカン用の自転車でウィリーをしているガキども。観客は全部で10人ほどだっただろうか。ジャコモは、オルメがアルバネッラでやって以降、ここ10年で最高のライブだったと賞賛した。
このどうしようもなく、ぐずぐずで独りよがりな人々の姿。それが愛すべき現代のイタリアなんだと思えます。そしてローマの貧民街を俯瞰したパゾリーニとは違い、マルツィアーノは、目に見える環境をそのまま作品にしたように感じます。一般的に多くの小説が語りたがる、クールでスマートな世界ではなく、汚い部分を余すことなく照らしてみれば、まだまだイタリア性が感じられる、そんな気がします。
ちなみにオルメはイタリア随一のプログレバンドです。


