
(人口5万人弱の市街地を抜けて海辺へ)

(空と海の境界が曖昧な日)

(凪いだせいで海底がよく見えて意外と透明でびっくり)

(トリックアート風に撮った)

(京都銀行的な?堤防)

(僕の好きなバイク旅YouTuberのこつぶさんが日本一周中に北海道で出会ったツーリング中の父と娘のハーレー乗りライダーがいて、北海道ツーリングから帰った三女さんが地元に敷地と物件を購入して家族と共に自分達でリフォームして造った古民家カフェのBOB CAFEさん。その一家は皆ハーレー乗りのBOBU RIDERSでとても素敵な御一家だ。)

(豊かさとは人の想いが満ち溢れていることだと思う。)

(見晴らしの良い長閑な景色)

(床以外は全て手作りなのだとか。一つ一つがもてなしてくれている様で嬉しくなる。こういうのメイド喫茶にも繋がるね。オーナーのえみゆさんはきっと良いメイドさんになれる人だ。)
人一人を丸ごと大切にするのはとても難しいことだと謂う持論がある。
幸せや愛も人其々で違うものを望んでいたりするから。
例えば好きな人と共に皆で生きたいと願う人と、好きな人が自分だけを大事にしてくれることを願う人が、「幸せになりたい」と同じ言葉でそれを表現する。
多様性を認めるということは価値観が違っても自分と同じ様な喜びや悲しみを持っていると認めることで、望んでいるものがまるで違っても自分と同じ人間で、自分と同じ存在だと認めること。
皆が嬉しいと嬉しいし、誰かが悲しいと悲しいでしょ。
けれども自分の人生に納得していない人は沢山いて、変わりのない毎日を望んでいなくて今とは違うものを求める。
何か一つそれを得れば全てが解決する様なものなど無くて答えは有っても満足出来ない。
僕が敬愛するドゥルーズは生とは個人的なものでは無いと謂う。生とは始まりも終わりもない大きな流れであって、個体とはその個体に関係づけられた諸々の集合であって、死とはその分解に過ぎない。
人間の本質は強度量であって個人とはほんのひと時その部分がその様に配分され配列された一つの組み合わせであり、生の中の一つの部分の状態であって、生とは生命や物体に生成しつつ絶えず分解して流れる強度の流れである。
よって個人のものなど一つも無く、私や貴方というものは解釈の産物であって、お前の感情はお前のものでは無いし、お前の思考も言表も何一つお前のものでは無い。
一見否定的な哲学だけどドゥルーズの哲学は肯定の哲学とも謂われる。生を肯定し、生を愛することがドゥルーズの目標だからだ。
私や貴方という主体性や諸々の意味や概念、諸々の解釈は生を捕らえて停滞させ縮小させる領土性であり、生は一方で領土化しながらも他方では常に脱領土化して流れていく。諸々の領土性を突破して生の力能を解放し、朗らかに十全な生を全うすること。生を愛する者は死を受け入れる、のだそうだ。

(タコライス。チーズが美味しい。)

(そしておぜんざいと珈琲。BOB CAFEは11時OPENの17時CLOSEで僕はオープンラストでずっと本を読むから、15時頃に2回目の注文をすると決めている。)
ドゥルーズの哲学は寧ろ意外と倫理的でもある。
大体の過ちは自分のことに捕らわれて相手のことを考えないから起こる。
自分に執着せずに自分を含めて自分が関わる皆を大事に出来ればそうそう問題は起きないし心は循環して健全に流れる。
好きなメイドさんが来ないからと拗ねる事も無い。
何処まで大事にすれば良いかという基準など無くて自分の望みに従って出来るだけやれば良いし、やれるだけのことをやって自分の力能の一つの限界を知れば無力感に捕らわれる傲慢さにも気付く。
生を愛せるなら存在を悔やむことも無い。
けれども愛する側は自分や相手が良い状態で居られればそれで満足出来ても、愛される側は生とか強度の流れとかではなく一人の人として自分を見て欲しいと願うだろう。他の誰でもない一人の人として。
でも今読んでいるドゥルーズの著作で丁度こんな一文が有った。
「愛されるという唾棄すべき願望に代えて、私は愛する力能を置くことにしよう。」
流石に強い。

(庭に出て一服)

(激旨無水カレーとチーズケーキと珈琲。おぜんざいは売り切れた。)
幸福とは愛することで、愛とは何かを大事にすることで喜びを得る感情だと僕は定義する。
ドゥルーズの言葉は僕の定義にも整合する。
愛し合えることは素晴らしいに違いないがそれが幸せなのは相手を愛しているからで、愛していない相手に愛されても幸福にはならない。
大抵の愛されたいという願望は愛してくれる相手を自分も愛するだろうことを前提としているけど、現実にはそうそう人から愛されないどころか自分が人を愛せないものだ。
選り好みをして誰も愛していないのに誰にも愛されないと嘆いて飢えたり、都合良く分割した相手の部分しか愛せなかったり。
それらは却って生を閉塞させ痩せさせる。
だからと言って唾棄すべきとまでは思わないけど、愛されたいと嘆くのは先ず愛せてからだろう、とは思う。
その愛さえ誰のものでも無く誰かに向かうものでも無いとか言われそうだけど、もしそれが愛ではなく憎しみなら頷けもする。
少なくとも自由に出来るものでは無いし、憎しみの原型は自分が受けた苦痛を思い知らせようとする衝動だと思うので、それは個人に向かうものでは無くて寧ろ苦痛への反応であって、苦痛となる刺激に向かうものだ。
だから何の脈絡も無くても当人の刺激となったものが対象となって、浅はかな憎しみは無関係な人を突然攻撃する仕方で流れたりするし、強い憎しみは対象が何も見当たらなくても消えない。
憎しみなら自分のものに出来なくても構わないのに、愛なら自分のものとしておきたいのは、単に不馴れでそれを認めるとどうなるか分からない不安や恐れからかとも思う。
しかしそれでも、ありがとうとかごめんなさいとは何に向かって言うのか、クリスマスプレゼントは何に対して贈るのか、生や強度の流れではなく他の誰でもない一人の人へではないのかと思う。問題はその一人の人と呼んでいるものは共通の解釈による産物だと謂うことだ。
そして問題は振り出しに戻って人間と呼ばれる存在者に纏る懐疑が続く。

(夕暮れ。晴れていたら綺麗な夕陽が見える。こつぶさんの生配信のチャットでキャンプの話をファン同士でしたことが有って、この日はその人と会えて特別に楽しかった。暖かくなったら何人かでオフ会キャンプをする計画を立てていて楽しい。)



