

海岸の道をコロコロとキャリーを押して一時間半程で丸山県民サンビーチ到着。けっこう人が居て賑わっていた。

テントを設置してゆっくり過ごす。

ホットサンド。映えた。

美味しかった。

海。

ホットワインを飲んで昼寝してたりした。

又キャンプを楽しみたい♪
人生とは何かという問いに答えは無いと謂われるけれど、答えは有る。
言葉とは言語記号であって、言語に限らず信号や予感や兆候も含めて記号であり意識の対象となるものは全て記号により対象として指し示され意識される。
言語の意味を知っているという事はその言葉が指し示す事物の集合を知っているという事であり、指示される事物の集合に当て嵌まる普遍的な内容がその意味になる。
詰まる処、辞書に載っている様なものが「何か」という問の答えとなる。
人生とは人が生まれてから死ぬまでの一生の間であり、生涯である。
客観的事実としてはそれ以上でもそれ以下でもない、何でもない答えだ。それをどう生きるかの方が遥かに意味が有る。
しかし真剣に人生とは何かと問う人にそれが答えだと言っても納得しないだろう。
こんな話が有る。
交通事故で最愛の人を亡くした遺族が何故こんなことにと問う。
現代科学は優れていて事故現場の痕跡や様々なモノの状態から、時速幾ら位いで走っていた車がどの位手前からブレーキをかけ、被害者に衝突した衝撃はどの位の重さで、それがどの様に身体を破壊したのかと詳しく解析出来たりする。
でもそんな説明をいくら聞いても遺族は納得せず何故こんなことにと問い続ける。
遺族が求めているのは何故そうなったのかという問いの答えではなく、最愛の人を失った苦しみを納得させてくれるものでありその苦しみから解放される答えだったりする。
そうであるなら何故こんなことになったのかという問いの答えを幾ら事細かに知ったところで本当に求めている答えは出ない。
自分が本当は何を求めているのかを知ることはとても重要で、それを知ることが出来たならその自分の願望を省みる機会にもなる。
人生とは産まれてから死ぬまでの間であって、そうでない存在は人間として存在しないのであって、どんなに苦しくてもその人が居てくれて良かったと思える切っ掛けにもなれる。
何故こんなことにという問いからは、何故そうなったのかという答えしか出ない。
人生とは何かという問いもそれと同じで、それを答えの無い問いだと嘆くのは問いを間違えているのだと言える。
例えば、何故自分は幸せではないのか、何を幸せと感じて何故それを求めないのか、どうすればそうなれるのか。それが本当に求めているものならそれを人生とは何かと問うのは問いを間違えている。
しかし存在論や認識論の哲学の分野にまで人生とは何か、そもそも人間とは何かと問うなら、先ず現代哲学は個を自然本来的に存在するとは考ない。個人の自我や主体や人格は存在のその時々の表象に過ぎない。存在の世界は不可分であり一なる有だ。
そしてブログタイトルの今読んでいる僕が敬愛するドゥルーズの著作に有った問い。
率直に言って愛する誰かとの出会いとは何なのか。我々は何を愛すのか、出会うとはどういうことなのか。
ドゥルーズは人間の本質を強度量だとする。
強度とは質量=エネルギーで謂うエネルギーの様なもの、として僕も同意する。
意外とそういう哲学は倫理的にもなる。
大体の過ちは求め方を間違うからであって、自分に執着して相手のことを考えない結果だ。
自分だけではなくて、相手や皆にとっても良い様に求められるなら心は淀みなく循環する。
私や貴方や彼等という点を造らず、ただひたすらに強度の流れを見ること。
結果としてそれが自分も他人も大事に出来るしいろいろ正しいとも言える。
けれど私があなたを見る時、あなたが私を見る時、見る方は意識や人格とはさして関係の無い強度の流れを見て満足出来たとしても、見られる方は一人の人格としての自分を見てほしいと願うのではないか。
出会いとは先ず何よりも強度と強度の接触であり、その間に発生するものの生成、創造であるのだそうだ。
一つ言えるのはそれは望むものとの出会いであって、望まないなら愛する誰かとはならないし、望んだものと出会うのは確かな喜びだと言えるだろう。
♪^_^

















