今日は新撰組の日? | moeccyaのブログ

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元々はカラメネットに記載していたのですが、閉鎖されてしまったので移行しました。
カラメネットではこんな感じでした。
https://megalodon.jp/2012-0309-1019-12/moe.b.to/twitter01/307
なお初期の記事は時間的関係でほとんど転載してません。





新撰組で好きな隊士はいる?


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☆ 3月13日

〇新選組の日
 文久3年(1863)3月13日、この日、京都・壬生に詰めていた「壬生浪士組」に、
 陸奥国会津藩主で京都守護職の松平容保から「会津藩預かり」とする連絡が入り、
 新選組が正式に発足しました。
 3月13日、この日を「新選組の日」として日野市観光協会が設定しています。


〇新選組の日
 新選組にゆかりのある東京都日野市の特定非営利法人日野市観光協会が制定。
 日付は京都の壬生に屯所を置いていた近藤勇などの浪士隊に1863年(文久3年)の3月13日に、
 会津藩公用方から「会津藩御預り」とする連絡が入ったことから。


〇新選組の日
 東京都日野市観光協会が制定。

 1863(文久3)年3月13日、
 京都・壬生に詰めていた新選組の前身「壬生浪士組」に、
 会津藩主で京都守護職の松平容保から会津藩預りとする連絡が入り、
 新選組が正式に発足した。

 元々壬生浪士隊は、清河八郎の提案で、
 事件が頻発している京都の警護に当る為に幕府が江戸で募集をしたものである。
 1863年2月に江戸を出発したが、京都に着いた途端、
 清河が壬生浪士組の目的は尊皇攘夷だと言い出したため、
 浪士組は空中分解してしまった。
 まもなく幕府の帰還命令を受けて清川ら209名は江戸に戻ったが、
 近藤勇・芹沢鴨・土方歳三ら24名はそのまま京都に残留した。
 松平容保の配下に入り、8月に「新選組」と改称した。
 その後、約4年間にわたり、京都で尊皇攘夷派・倒幕派の弾圧を行った。


〇新選組の日
 新選組にゆかりのある東京都日野市のNPO法人・日野市観光協会が制定。

 1863年(文久3年)3月13日、京都・壬生に詰めていた
 武芸に秀でた浪士達で構成された新選組の前身「壬生浪士組」に、
 陸奥国会津藩主で京都守護職の松平容保から「会津藩預かり」とする連絡が入り、
 新選組が正式に発足した。

 もともと壬生浪士組は、清河八郎の提案で、事件が頻発している京都の警護に
 当たるために幕府が江戸で募集をしたものである。
 1863年2月に江戸を出発したが、京都に着いた途端、
 清河が壬生浪士組の目的は尊皇攘夷だと言い出したため、
 浪士組は空中分解してしまった。

 まもなく幕府の帰還命令を受けて清河ら209名は江戸に戻ったが、近藤勇・芹沢鴨・
 土方歳三・沖田総司・山南敬助・永倉新八・井上源三郎・斎藤一ら24名は
 そのまま京都に残留した。松平容保の配下に入り、9月に隊名を「新選組」と改称した。
 その後、約4年間にわたり、京都で尊皇攘夷派・倒幕派の弾圧を行った。

 記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
 日野市は新選組副長の土方歳三や六番隊組長の井上源三郎らの出身地であり、
 新選組の故郷である。
 この歴史・文化を郷土の誇りとして、意識おこし・まちおこしにつなげ、
 市全体の活性化を目指している。


☆ 3月12日

☆ 2月27日が「新選組の日」というのが大間違いである理由
 2月27日は「新選組の日」であると、一部ネット上で書かれている。
 文久3年(1863)2月27日が、新選組の結成された日であり、
 それを記念して「新選組の日」に認定されたというのである。

 しかし、これはまったくの間違いなのだ。
 2月27日は新選組が結成された日でも何でもなく、
 単なる誤りで記念日が認定されてしまったに過ぎない。
 なぜそんなことになったのか――、「新選組の日」に関する状況を整理してみよう。

間違った理由がようやく判明した
 新選組が結成された日とみなされるのは、正しくは彼らが京都守護職・松平容保の
 お預かりとなった文久3年(1863)3月12日、もしくは13日であるべきだ。
 2月27日のほうは何の日でもないとはいっても、
 何かはしたのだろうと思われるだろうが、
 信じがたいことに本当に何もしていない日なのである。

 ならばなぜ、この日が「新選組が結成された日」などとされたのだろうか。
 私も頭を悩ませたが、ようやくその理由がわかった。
 『国史大辞典』(吉川弘文館)の「新選組」の項目に、こう書いてあったのだ。

 「京都に残った浪士組は、文久3年2月27日に京都守護職松平容保の監督下に入り――」
  これは、内容的にまったく間違っている。
 本当に2月27日に松平容保の支配下に入ったのなら、
 それを新選組の結成日とするのに問題はないが、そういう事実はどこにもない。
 異説としても見当たらないのだ。

 おそらくは単なる間違いなのだろう。
 そして、記念日を認定する団体も、『国史大辞典』が日本史の事典として
 権威のある本であることから、無条件に内容を信じてしまったもののようだ。

 よりによって、たまたま記述が誤っている箇所を見て、
 「新選組が結成された日」を認定してしまうとは…。困った話もあったものだ。

新選組が誕生した日は
 では新選組が結成された日、すなわち新選組が誕生した日はいつと見なすべきだろうか。

 幕府が将軍上洛の護衛のために募集した「浪士組」は、
 文久3年2月23日に京都に到着したが、
 浪士組の首謀者の庄内浪士・清河八郎がその夜突然裏切った。
 自分たちの真の目的は幕府のためではなく、天皇のために尽くすことにあると、
 一同を前に宣言したのである。

 そして3月3日、浪士組は江戸に帰って外国との戦争にそなえよという命令を、
 朝廷から出させることに清河は成功した。
 230人余りの浪士組の者は驚いたが、清河の巧みな弁舌に乗せられて
 大半はそのまま江戸に帰還することになる。

 しかし近藤勇ら20人ばかりの者は、
 将軍警護という本来の目的をまだ果たしていないといって反対し、
 浪士組を脱退して京都に残る道を選んだ。
 彼らは3月10日、京都守護職をつとめる会津藩主・松平容保を頼り、
 自分たちが京都に残留することを許可してもらいたいと願い出た。

 この願いが聞き届けられたのは、3月12日深夜のこと。
 近藤が故郷にあてた手紙に、こう書かれている。

 「十二日夜九つ時、ようよう願いの趣意お聞き済みにあいなり、
 会津公お預かりとあいなりおり候」

 壬生村で待機する近藤らのもとに、おそらくは会津藩の使者がやってきたのだろう。
 使者がもたらしたのは、近藤らを会津藩のお預かりとする、
 つまり臨時雇用するという吉報だった。

 夜九つ時というのは、深夜0時のこと。
 なぜそんな時間に知らせが届けられたのかというと、
 翌日の13日に浪士組本隊が江戸に向かって出発することが決まっていたからだ。
 だからそれまでの間に、近藤らの身分を確定させてやる必要があったのだった。

 ちなみに深夜0時ならば、12日とみなすのか、13日とみなすのかという問題がある。
 現代的に考えれば0時から日が改まるのだから13日となるが、
 江戸時代の一般的な考え方ではまだ12日のうちになるからだ。

 ここは当時の慣習に従い、近藤らの会津藩お預かり決定は12日と
 みなすのが適切というべきだろう。
 すなわち新選組が誕生したのは3月12日――。
 この日をもって「新選組の日」と認定するのが、最も正しい考え方ということになる。

 記念日認定団体の方々は、一刻も早く「新選組の日」を改めていただき、
 2月27日に無意味に騒ぐことのないようにお願いしたいものである。


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