宇野邦一さんらのトークセッションに先日行ってきました。いつもの様にアイスティーを啜りながら椅子に座っていると、宇野さんらお三方が登場。芳川さんは花粉症の為にくしゃみをしたところギックリ腰になり、座っているのもつらい状況だとか。後にトーク中に「ベケットの消尽したもののようですな!」と言っておりました。宇野さんは昔バタイユやアルトーが好きだと言ったら「おキチ系がお好きなんですねえ」と言われたそうです。『ドゥルーズ 千の文学』買いたいです。トークセッション終了後新宿の街角に繰り出した私は、アルタ隣の通りの店前のテレビに映るKARAのミスターのPVをずっと見ていました。TAROの塔がめちゃめちゃおもしろいですね!バタイユも出て来ましたよ!1930年代のパリ、おもしろそう!戦争前で大変そうだけど…
19日の國分功一郎さんと千葉雅也さんの対談に行って来た。レモン入りのアイスティーを飲む。帰りに思わず『スピノザの方法』と『アンチオイディプス 草稿』を買ってしまう。『週刊 読書人』も。「デカルト的体育」。少年野球的な規律訓練的なものに対して、身体がその場その場で勝手に動き出すような武道的、格闘技的なもの。音を聴くだけで「日本のピアニスト」だとわかるそうだ。堅苦しさというか型にはまったというか型にはめられた感じ。規律訓練的な「こうすれば感情がこもっているように見える」という弾き方に自分を合わせる。「他力」ではなく「自力」だ。「日本のピアニストは自力だ」。「身体」なのか「外部」なのか「自然」なのか「現実」に「任せる」感じか。身体の持っている「力」「意志」を解放する感じか。「同期」「共鳴」の話。「ファシズム」にならぬように注意と。よい社会とはよいファシズム社会、との話も。違う波動を持つAとB。隣同士に置いておくと波動Cに両者が生まれ変わる。それが無限に伝播、感染していく世界、社会。みんな同じはファシズムだけど。ヘルダーリは「すべては律動である」と言ったそうだ。単一の唯一の同一の律動、脈動であると。非常に魅惑的なイメージである。体験の告白である。あらゆる芸術作品、人間精神の活動が同一の律動であると。人間の認識も一種の芸術作品であるならばすべては同一の律動であるのか。意識以前にすでに存在する世界。そこから精神が生み出され構成し認識する。意識によりすでに調整され図式化された世界を認識している。そんな精神は身体に要請されたのか。そんな身体は自然に宇宙に要請されたのか。そんな身体イメージ、宇宙イメージは人間精神独自のものなのか。虫の生きる世界、犬の生きる世界。虫の宇宙イメージ。虫の身体イメージ。虫の意識。虫の精神。虫の無意識。虫の欲動。デカルト的なものとスピノザ的なもの。ふたつの異質な性質の絡み合いが人間なのか。意識の心の上部に選択的にどちらを浮上させるかを決めることが出来るかのようにも思う。人類300年の「デカルト・ニュートン的世界観」の選択。対して「スピノザ・ホイヘンス的世界観」があると。「直観に到達するには時間がかかる」世界の直接性に魅惑される。
Bunkamuraで「モネとジヴェルニーの画家たち」を見てきました。モネは『日傘の女』が好きです。今回『積みわら』や『睡蓮』があったのですが、今まで『睡蓮』の良さがわからなかった。しかし今回解説に「抽象表現主義の先駆的なものといえる」とあり、「抽象画」として見るといいかも。と思った。「睡蓮」や「太鼓橋」という対象と関係なく絵を見る。例えば絵を四分割して。するとポロックみたいなわけのわからない模様というか色彩というか線が浮かび上がる。しかし「印象派」というものも近くで絵を見てみればわけのわからない模様のようにもみえる。ただの線や点や滲みである。明確な輪郭といったものはない。野獣派、表現主義、抽象画、キュビズム、いろいろあるみたいだけど「反リアリズム」というか「自然な」人間の知覚を疑うというか問い直すというか、そんなようなことがあるのだろうか。しかし昔は宗教画ばかりだったのか。それは「現実的」とはいえない。ラスコーの壁画ぐらい遡ればそうだけど。それが「現世肯定」としてのルネッサンスなのだろうか。そこからリアリズムとか自然主義とか生まれるのか。そしてバロックとか幻想とか異様なものになっていくのか。「ロココ」はいつだろう。