19日の國分功一郎さんと千葉雅也さんの対談に行って来た。レモン入りのアイスティーを飲む。帰りに思わず『スピノザの方法』と『アンチオイディプス 草稿』を買ってしまう。『週刊 読書人』も。「デカルト的体育」。少年野球的な規律訓練的なものに対して、身体がその場その場で勝手に動き出すような武道的、格闘技的なもの。音を聴くだけで「日本のピアニスト」だとわかるそうだ。堅苦しさというか型にはまったというか型にはめられた感じ。規律訓練的な「こうすれば感情がこもっているように見える」という弾き方に自分を合わせる。「他力」ではなく「自力」だ。「日本のピアニストは自力だ」。「身体」なのか「外部」なのか「自然」なのか「現実」に「任せる」感じか。身体の持っている「力」「意志」を解放する感じか。「同期」「共鳴」の話。「ファシズム」にならぬように注意と。よい社会とはよいファシズム社会、との話も。違う波動を持つAとB。隣同士に置いておくと波動Cに両者が生まれ変わる。それが無限に伝播、感染していく世界、社会。みんな同じはファシズムだけど。ヘルダーリは「すべては律動である」と言ったそうだ。単一の唯一の同一の律動、脈動であると。非常に魅惑的なイメージである。体験の告白である。あらゆる芸術作品、人間精神の活動が同一の律動であると。人間の認識も一種の芸術作品であるならばすべては同一の律動であるのか。意識以前にすでに存在する世界。そこから精神が生み出され構成し認識する。意識によりすでに調整され図式化された世界を認識している。そんな精神は身体に要請されたのか。そんな身体は自然に宇宙に要請されたのか。そんな身体イメージ、宇宙イメージは人間精神独自のものなのか。虫の生きる世界、犬の生きる世界。虫の宇宙イメージ。虫の身体イメージ。虫の意識。虫の精神。虫の無意識。虫の欲動。デカルト的なものとスピノザ的なもの。ふたつの異質な性質の絡み合いが人間なのか。意識の心の上部に選択的にどちらを浮上させるかを決めることが出来るかのようにも思う。人類300年の「デカルト・ニュートン的世界観」の選択。対して「スピノザ・ホイヘンス的世界観」があると。「直観に到達するには時間がかかる」世界の直接性に魅惑される。