おそ松さんが人気だというのは知っていたが観たのは随分遅かった。第一期の再放送の途中からぐらいだ。トッティの合コンのやつくらいからか。とてつもなく面白かった。その後、何回か観て、やはりとてつもなく面白かった。第二期からは大体リアルタイムで毎回観ていたのだが、第一期のものを録画したまま放っておいてまだ観ていないものが結構あったので見始めている。昨日観た『レンタル彼女』は身につまされるものもあり、とても面白かったが、今日観た、『十四松の恋』に感動した。同じ回の『チビ太のおでん』もなかなか深い話だと思った。どんな仕事でも「己を高め」「夢を与え」「世界平和」に繋がるのではないかと。チビ太の「適当でいいから、やりたいこと言ってみろ」というのも人生相談として最高の言葉だと思った。チビ太の狂気っぷりも恐怖を感じる面白さだった。『十四松の恋』だが、おそらく人生に絶望し、死のうとしている女性を十四松が助けて恋が始まるのだが、ここに工夫がある。工夫というか、ひねりがある。ひねりゆえの真理のようなものがある。人は誰かの役に立ちたい、人を救いたい、と思っているものである。人生に絶望し死のうとしている人を元気づけるプレゼントとは一体何であろうか?十四松は自分が死にかけ、それを彼女に救助させることで彼女の生に意味を吹き込んだのではないか?それが意図なのか偶然なのか奇跡なのか無意識なのか本能なのかはわからない。だが彼女は何より大きなものを得て、それは合わせ鏡のように十四松も一緒なのだ。救い合い、与え合い、自身の生に意味を見出した二人なのだ。そして十四松は何より「無意味な芸」を得意とするキャラクターであり、それが彼女の心を暖め、それを見て十四松も満たされる。ここにも意味と無意味の奇妙な反転がある。そしてラスト、彼女は十四松の求愛を断り、地元に帰る。十四松が最後に見たのは彼女の笑顔だった。十四松は叫ぶ。「ありがとう」と。十四松は彼女に恋を貰ったのだ。車内の彼女の手首には「14」と書かれたブレスレットが逆さまに写し出される。14は十四松の14だと思う。14は1(生き)4(死に)、生き死にを連想させる。死ぬつもりだった彼女は十四松に生き死にを逆転させて貰ったのだ。彼女も十四松のことが好きだったと思う。だが、「これでいいのだ」と、彼女は思っていると思う。
フーコーは『言葉と物』も『狂気の歴史』も読んでいませんが、周辺のものをチョロチョロ読んだぐらいであくまでもイメージなのですが、坂口安吾が『魔の退屈』で言っていた「悪魔的な楽天性と退屈」というのがぴったりな気がする。ニーチェは英雄的な生の肯定。ドゥルーズはドロップアウト、反逆、アナーキーなイメージ。だからニーチェはAKB48、フーコーは乃木坂46、ドゥルーズは欅坂46、のような気がする。「悪魔的な楽天性と退屈」というのは安吾が戦時下の東京で感じていた感覚である。「女のハリアヒのない微笑」という言葉でも表される。戦時下の東京では蓄積や生産、人間的な日々の営みが不可能になる。そこには瞬間的な快楽や動物的な運動以外なにもない。安吾はそこに新しい人間の生き方の萌芽を見いだしていたのか、そのような状況下ではそのように生きるしかしょうがない、と考えていたのかはわからない。しかし『魔の退屈』を『堕落論』の手引きのようなものとして読むとすると、何かしらそこに「人間の本来の在り方」とか「理想的な生き方」が示されているとも言えるかもしれない。『堕落論』では「正しく堕ちることの難しさ」が語られていたように思う。駄目になればいい、悪事を働けば良い、というものではない。「むきだしの欲望に正直に生きれば良い」というようなことだと思うがどういうことだろうか。「女のハリアヒのない微笑」という言葉に顕著だと思うが、戦時下の東京には意味も目的も理想も消失している。その瞬間その瞬間を動物的にやり過ごすしかなく、長期的な計画も予定も生産も蓄積も構築も不可能だ。意味を持たない。そこに現れるのが「魔の退屈」「悪魔的な楽天性と退屈」だ。先ほど私は乃木坂46と言ったが乃木坂46にもそんなムードがある。名曲「他の星から」に顕著だが、お嬢様の諦めと楽天性と退屈と絶望と刹那性が見事に描かれている。お嬢様は決められたレールの上を走る。それは安全で満たされた幸福な道程だ。しかしふと「野良犬やドブネズミ」が羨ましく思えたりもする。しかしこの道は外れたくない。逃げたくても逃げられない。逃げるつもりもない。だって今の暮らしに満足しているし、パパやママを悲しませたくないから……。というような。しかし心のどこかで「圧倒的な自由や解放」に憧れていて、逃走できない自分、反逆できない自分に絶望もしている。そして「こんな世界、壊れてしまえばいいのに」と心のどこかで思っている。それが乃木坂46である。「他の星から」の女の子である。人は堕落に憧れる。正しく堕ちることを望む。「悪魔的な楽天性と退屈」は戦時下の東京、安吾の東京にしかないのであろうか。必死で勉強したり必死で働いたりするのもひとつの戦争状態とも言えるだろう。そして現代を覆うこの閉塞感は絶望の別名である。我々は大きな何かを諦めることを強要されているのだ。我々は皆、知らないうちにレールの上を走らされている。それは安全で幸福な道だ。しかし我々は心のどこかで「異様な自由、圧倒的な解放」にも憧れている。この諦めの中で、「人間的な生活」が不可能な生活の中で、「魔的な退屈」の中で、「悪魔的な楽天性と退屈」の中で、蓄積と生産、目的と理想が消えた世界で、我々は夢を見る。一瞬、この世界に亀裂が入る夢を。悪魔と野良犬とドブネズミの夢を。その圧倒的な自由の夢を。
やっと残酷な観客達の録画を観終わった。テーマ曲の「エキセントリック」とても好きだ。「狂気」の表現としてとても洗練されているし生きる道がパッと照らされる感じだ。欅坂のアルバムも大変な名盤だと思う。またじっくり聴こう。ドラマはとても謎めいた作りで、映画版しか観てないけど「まどマギ」みたいな感じだと思う。(これからはネタバレになります)これはまあ普通の見方だとみこの唯一の親友ゆずきは事故か自殺か死んでいて、みこはそのショックから立ち直れていない。「永遠にゆずきと一緒の世界」を夢想している。その夢想が現実化しているのか夢想の中を漂っているのかはわからない。「残酷な観客達」とは「いいね」を付けずにみこ達を閉じ込め続ける存在であるが、それは同時に「ゆずきと一緒の世界」を守り続けてくれる「甘く優しい観客達」でもある。最終回みこは「現実」の「ゆずきの不在」に直面し「幻想」は破られる。孤独な教室に放り出されたみこは再び夢を見始める。しかしそこにゆずきはいない。クラスメートも観客も一変している。そしてみこは誓う。「私の中の闘いはまだ終わることはできない。私がみんなを外に出してやる」と。しかしこうも考えられる。死んだのはみこで、みこが自分の死を受け入れ、ゆずきとの別れを受け入れ、みこが「成仏」するために悪戦苦闘する物語、とも。観客達の圧倒的な肯定の力によって自らの死を受け入れて成仏するような。こうも考えられる。教室に居場所のない「ひとりぼっちの女の子」が延々と作り出す妄想の世界、とも。みこはこのシステムの中で観客と繋がりクラスメートとも繋がることができるのだ。みこは最後「今度こそ」と言って物語は終わる。キャストを変え観客を変え繰り返される脱出の物語。出口を本当に求めているか誰も知らない。