散歩が好きだ。







例えば適当な駅におりて、その街を知らない状態で歩いても、どこかで見かけたようなものがある。







歩道まで進出している婦人服屋さんや、

その街で育ったキッズが描いた壁画、

何日干されているのか聞きたくなる洗濯物がかかっているベランダ、

四方を分厚いブロックで囲われた地主っぽい家に生えている立派な木、

その街なりのユーモアがある遊具や道のタイル。







あなたの地元にもあるかもしれない。

それらを、ぼんやりと眺めるのが好きだ。理由は、エモいから。







浅ーい。





と思われていることは知っている。

でも、自分が一度も訪れたことがない街にも当たり前に人が住んでいることや、

誰かが毎日見てつまらない風景だと思っている景色が、私にとっては今日初めて見る景色だということがなんだか不思議で、知らない街を散歩すると

懐かしいとも、新鮮ともいえるなんとも形容しがたい、ひとつの感情にまとめられない心のざわつきを感じる。




だからここでは、ふわっとしてるけど、心は揺れ動いてるという状態をあらわすにはもってこいの浅すぎる形容詞、エモい。を採用させて頂く。




 




このような浅く、ぼんやりとした妄想は私の趣味といってもいいかもしれない。

私の中にはほかにも無数にこういった考えがある。








例えば電車に乗って外の住宅や人通りを眺めている時、今自分の目に映っているこの中にもしかしたら自分と最も相性がいい人間がいるかもしれないし、

その人物をレーダーで探し当てられたらいいのにと思う。




そして実際会ってみたら納得感が無くて、

ええー、自分と相性がいいやつって意外とこういう見た目のやつなんだとかあるかもしれないな、などと想像をする。なんの生産性もない。







例えばエレベーターを利用した時に乗り合わせた人が5人いたとする。




今ここでエレベーターに閉じ込められたら各々どういう反応をするかなあ、と考えたあと、

でももし本当にそれが起きたら私だけは冷静なはずだ、なぜならもう既にいまその未来を一旦考えてみているからね、などと思ったりもする。






極めつけには先日雑貨屋に立ち寄った際、

自分が気になった雑貨をあとから入ってきた人が手に取ってましまじとみているときに、

私もそれが好きだけど、あなたは何故それを手にとったの?と、尋ねてみたくなった。







自分でもあとから少し怖くなったが、

これは私が陽キャで誰彼構わず話しかけたいということでは全くない。

疑問に思ったことを聞いてみてるだけなのだから、答えてくれてもいいし、なんなら好みが合うのだからそこから友達になる未来があるかもしれないやん、とすら思うネジが緩んだ脳を持っているからだ。





自分の思ったように世界が動いたら面白いという可能性のイメージがある人間はきっと多い。

ヒーローになって人助けをしたり、助けたお婆さんが大金持ちであったりというテッパンな妄想は皆が経験しうるのではないだろうか。







私はこの妄想癖に加えて、客観視能力が強い。

世の中、そう甘くは無いのだ。





スーパーマンになれても、世間のヒーロー像に縛られて不幸せになりそうだし、助けたお婆さんが大金持ちでもお金を貰ってしまったら親族の相続争いに巻き込まれかねない。





私は想像の中ですら整合性をとりたいタイプで、バランスをとりたがる。

おそらく最悪の場合、想像と現実の区別が付かなくなる可能性があるだろう。

だから知らない人に話しかけたくなったりもするのだ。

ポジティブに言えばアイデアマン、バランサー、クリエイティブ、エンターテイナーでありわびさびがある。

そしてネガティブに言えば統合失調症予備軍なのである。








話は逸れるが、今日散歩中に古着をみていたら






「ディスカウントストアだったらここが1番安いよ、洗えばいいんだからいいよな」





と、なんの脈絡もなく突然おじさんが話しかけてきた。それに対し私は、





「確かにー、それはそうかも」


 



と、返した。なぜなら対等に話せなかったら悔しいから。

話しかけられたらさも当然のように対応してみせたい、私の強がりである。






明らかに私より2回りくらい年上のジジイだが、当然タメ口での返答だ。

あのおじさんは若者と話して承認欲求を満たしたいのか、自分の情報を共有したいのかよく分からなかったが、

もし私がいつか知らない人に実際に話しかけてしまったら、思考プロセスが違ったとしても同じことをしたことになる。






つまり私は道を踏み外した場合、街の変なおじさんになりうる可能性があるのである。

運命には抗えない。