[学習的無力感とは]
長期にわたってストレスの回避困難な環境に置かれた人や動物は、その状況から逃れようとする努力すら行わなくなるという現象。(ウィキペディア)
例えば、あるボタンを押せば檻が開くという装置に置かれた犬が、どんなにがんばっても出られないとして。次に近づいただけで檻が開くという装置に置かれたとしても、なにも行動をしようとせず鼻を鳴らすだけの状況になってしまったこと。これを学習的無力感といいます。
よくドラえもんののび太が言ってる「どうせ、僕なんか何をやっても・・・」というあの状態ですね。
ふとおもったんです。これって幼少期の子育てでとても重要なことなのではないだろうかって。
よく子供は褒めて伸ばしなさいと聞きます。その意味はよくわかりませんが、我が家でもそれに倣っています。
たしかに、叱ってやらせるよりも褒めて煽ててやらせたほうが効率よく、素直に動くのです。これは学習効果ですね。これをしたら褒めてもらえる。褒美がもらえるとがんばるあの姿。
逆に僕の友人で幼いころから所謂、教育ママに育てられたという友人がいます。
彼女は現在、躁うつ病を患っていて苦しい毎日を送っています。いろいろと話を聞くと、母に褒められた覚えがあまりないというのです。
逆に叱られた記憶は、むしろそれしかない状態だといいます。
「なぜできない。」「どうしてそうする」「何を考えている」などなど。大人でもそんな言葉を毎度かけられても参ってしまいます。親になった今だから彼女の母が当時どうしてほしかったのか、将来どうなってほしかったのかわかりますが、当時の彼女にそんなことがわかるはずもありません。
その弊害として彼女は躁うつ病になってしまいました。母の怒鳴る声に怯えて生きてきたので工事の音や除雪車が通るような轟音を間に当たり
にするとまさに、蛇に睨まれた蛙状態。まったく動くことも、言葉を発することもできなくなってしまうといいます。
思い返せば、以前お付き合いをさせていただいていた方も同じような状況でした。
何を言っても母に論破されつづけたことで、言いなりになって、そして反論することを諦めてしまったといいます。
数年お付き合いをさせていただいてようやく思っていることを、言い合える仲になりましたが、付き合って1年ちょっとは僕がこうと言ったら不満気な顔をしつつもそれに従っているという状況でした。これが学習的無力感なのかと今なら思えます。
誰にでも無限の可能性はあるのです。
それにボーダーラインを引いてるのはほかでもない自分です。
ただ、その地盤を作るのは自分の親の仕事。家の建築でも基礎がしっかりしていない状態で箱を作っても脆く、すぐ壊れる。それと同じで幼少期の教育がどれだけ将来の人格形成に大切なことか、僕は今までの人生で学んできました。
実は妻も学習的無力感の傾向があるので、今後これが子供たちにどう影響を与えてしまうのか、少々不安でもあります。
小学校、中学校、高校と成長していくなかで「どうせ、わたしなんて」「どうせ、ぼくなんて」なんて言葉を子供たちの口から聞きたくないですね。何にでも自信をもって取り組める環境づくり、それがぼくら親の仕事と自覚し、取り組んでいこうと思います。