公案という言葉よりも、「禅問答」という単語の方が

馴染みのある方が多いかもしれませんね。

 

「禅問答のような」という表現が表す通り、理知的な判断

では到底真意を掴むことができぬような問答が禅問答であり、

それは、理路整然と考えて済ますことのできるようなものでは、

全くもってありません。

 

この「禅問答」に使われるある種の問題が、公案だと言ってしまって、

とりあえずは良いと思います。

 

有名なもので言うと、白隠禅師が考案した、「両手をパンと合わ

せると音が出るが、では、両手ではなく片手の音というのはどんな

音か、聞いてこい」という公案があります。「隻手の公案」と呼ばれて

います。

 

これは頭で考えても、わかりませんね。

 

公案というのは、字義そのものは、お上が発行した公文書というぐらいの

ものですが、この「公」というのを「真理」と捉えると、その実質の

雰囲気が伝わるような気がします。禅では真理が「お上」、つまり絶対

権威であり、位の高いお坊さんが偉い、ということはありません。

 

要は、真理を発端とした、真理を端的に表すようなものが公案。

その内実は、どのようなものでも公案として使える、という

側面も併せ持っています。だから、手のことや音のことを公案にしたり

するんです。ただ、一般的にいう公案は、大昔のお坊さん

同士のやり取りの記録や、有名な禅僧の言行、お経からの一節

などを指します。

 

これらを題材に、修行者は「独参(どくさん)」あるいは「入室参禅

(にっしつさんぜん)」といって、部屋に入り、お師匠様と一対一で

差し向かいに座って問答を行います。

 

なぜ、そのようなことをするのでしょうか。

 

まず第一には、真理の体得のためです。クイズを解くのではありません。

室内で自分に与えられた問題を、坐禅中も、そうでない時も、四六時中、

心から離さずに、その問題に没入していくことで、修行僧は、禅が第一義と

する「自己を知る」ということを試みます。

 

逆にいうと、公案の答えがわかるというのは、あくまで自己をはっきりと

悟った結果であり、正解がわかったからどうである、ということではあり

ません。あくまでも、禅でまず大切なのは真理を(知的にではなく)経験的に、

体験的に知ることで、公案に取り組むことが、それを可能にしてくれます

(なぜそれが可能になるのかについては、別の投稿で取り上げます)。

お師匠様は、お弟子さんの意識をそこに向け続けさせるために、あの手この手と

手を尽くします。

 

第二には、お師匠様が、お弟子さんの受け答えを通じて、彼(彼女)が

真理をはっきりと見ているかのをチェックするために、問答が行われます。

 

坐禅や瞑想などをしていると、通常では見えないものが見えたり、

何か異常な体験をしたりすることが往々にしてあります。幻覚のような

もので、禅では「魔境(まきょう)」と呼ぶこともある現象です。ともすると、

このような非日常的な体験をもってして「自分は悟った」と勘違いして

しまう場合があったり、あるいはこのような体験にハマってしまい、

結果、本来重視すべき、真理を明らかにするという点が疎かになってしまう

ことがあります。

 

最悪な場合、そのような体験をきっかけに、悪意ある団体に引き込ま

れたりする危険性もあります。類似の体験を、薬物や、断食などの心身を

極限状況に陥らせることで誘発し、信者を増やし、利益を得たり、支配しようと

する団体があることは、世間を賑わせた例からも垣間見ることができます。

 

ある体験によって自己を明らかにし得たかというのは、本人の実感として

わかる、というのは確かにありますが、勘違いの場合もある。それを、

お師匠様に点検してもらって、初めてそれが真正のものであるということ

が証明されるわけです。過去に自らの体験を真正のものであると証明された人が、

さらに次の世代を証明し ... また次を ... と、この「証明」がお釈迦様から面々と

続いている、というところに、禅の生命がある、と言っても過言ではないでしょう。

 

これは、ある体験の真偽、特にその人の人生に関わるような重要な体験の真偽

を弁別するという点で非常に重要なものです。さらに言うと、宗教的な実践の

安全性を担保するという意味で、そのような実践を試みる人にとっては、

必要不可欠なことでしょう。

 

第三には、真正のものであれ、虚偽のものであれ、理解という理解を

弟子から師匠が全て奪ってしまうために、問答が行われます。これは、

ちょっとわかりづらいと思います。簡単にいうと、何かがわかったと思って

いるうちは、その「わかった」というのが邪魔になり、それにとらわれて

しまうことで、本当の意味で(真理を通じての)自由にならない、という

わけです。一般的な表現で言うと、仏教、こと禅では、この「何ものにも

とらわれない自由さ」を重視します。

 

真の意味で何からも自由になり、その自由さから出てくる、これまた自由自在

な働きを発揮していくために、修行者は、自己を明らかにしたあとも、

訓練を続けるわけなのです。その先には、次の世代へ真理の体得と

その「証明」のバトンをつなぎ、遠い未来に、人類全てが自己を明らめ、同じ

自由を手にする時点が見据えられています。

 

このように、公案と問答の実践は、禅の修行においてとても重要な位置を

占めており、曹洞宗などでは、この実践が行われることは非常に少ない

のですが、臨済宗では、今でもこの実践は行われています。