猛暑の続く今日この頃、冷たい飲み物が欲しくなる気候です。

とはいえ、何リットルもガブガブと水を飲み続けるような

ことはできませんが、今回は、その「不可能」をやってみせろ、

というお題についての投稿です。

 

登場人物は、居士(ほうこじ)という在家の修行者と、

馬祖禅師という、唐代の有名な禅僧です。

 

ある日、「この世の諸々のことを超越した者とは、

どのような人でしょうか」と馬祖禅師に問います。

それに対して、馬祖は「西江(中国の河)の水を一口で

飲み干したら、教えよう」と答えたという話です。

 

常識的に考えれば不可能なことですが、もちろん、ここでは

常識に基づいた答えは求められていません。

 

例えば「河口湖」と聞いたとき、私たちは、大きな湖の姿

を思い浮かべます。そして、その水を飲み干すと言ったら、

河口湖に対して、それを飲み干すべき自分がいて、

ゴクリゴクリと時間をかけて飲んでいくのだと思うのが

普通です。そうであるが故に、その水を全て飲み干すのは

不可能、という、いたって常識的な判断に至ります。

 

ここで、実際に何か飲み物を飲んで、実際に飲み物を

飲むときに何が起きているのかを観察してみると、

川の水を一口で、という課題の意図が少し分かってきます。

そのためには、いつも書いていることですが、

水を飲むという行為に私たちが貼り付けている概念の

ラベルを、一旦全て取り去ってしまう必要があります。

 

別の言い方をするならば、それは水、飲む、自分、という

概念なしに、純粋に身体感覚の上で「水を飲む」という

一連のプロセスを十分に感じてみる = 観察してみることです。

そうすると、そこに「水」と「飲む」と「自分」の分離が

全くないことに気がつきます。これは、かなり良い気づき

なのですが、それそのものは、大河の水を一口で飲み干す、

というお題からすると、もう一歩、といったところです。

 

そこで、次にポイントとなるのが、「何が水を飲んでいるのか」。

これをはっきりと体験的に理解することが、禅の骨子と言っても

過言ではないかもしれません。これがわかると、水を飲み干す

どころか、全宇宙を丸呑みしている自分というものに

気がつくことができます。そのためには、この「何が水を飲んでいるのか」

という問いを常に抱き続けることです。上記の質問を公案とし、

それに全身全霊で取り組むこと。問いはシンプルですが、根気がいり

ますね。それと同時に、チャレンジしがいのある問題でもあります。

 

もしよろしければ、どうぞ挑戦してみてください。