何のために坐禅をするのか。

 

これは、かなり微妙な質問ですね。道元禅師も「人にはみな仏の性質が備わっている

そうだ。なのに、なぜ修行しなければならないのだろうか?」とずいぶん悩まれたそうで、

この疑問を解決するために中国まで行ってしまう、というぐらいのものでした。

 

禅では「衆生本来仏なり」(白隠禅師)と言って、我々はこの身このままで完璧

なんだ!仏と同じだぞ!と堂々と主張しているのですが、その反面、日常生活では私たちは

怒ったり、悲しんだり、悩んだりしているわけです。到底お釈迦さまと同じとは

思えません。はて、この矛盾は、一体何なのだろうか。このように考えるのは、

当然のように思えます。

 

そこで、この点を、完璧「なのに」坐禅する。ではなく、完璧「だから」坐禅する。

と見てみると、いささか道元禅師や白隠禅師の本意に沿うような気がするのは、

私だけでしょうか。

 

まず、ここで言う「完璧」というのは、怒ったり、悲しんだり、悩んだりする

ことのない聖人君子のような人とか、毎日が幸せとか、心の静寂 ... とか、そのようなことを

指すのではありません。そうではなく、一切の心理的な対立・葛藤 = 心理的な苦しみのない

ところ、そして(ここが一番大切なところなのですが)「一切の対立・葛藤の根本とでも

言うべき、自他(自分と自分以外のもの)の分け隔てがないこと」を指している

と見ていきます。

 

そこを踏まえて、それが私たちのデフォルトの状態(?)である、すなわち本来完璧

であると見ると、先に述べた点が少しはっきりしてきます。つまり、本来苦しみのない

ところから、怒りやら悲しみやら色々なものが出てきているわけだから、いろいろ

あっても、結局は完璧、安心なんだ!というわけです。この点は、知的にそう理解する

だけではダメ、ということもあるのですが、それはまた後ほど ...

 

ここで肝心なのは、自他、「自分」と「その他」という区別、その境界線は、人工的な

ものだということです。「え、でも、実際に自分がこっち側にいて、世界があっち側に

あるように感じるけれど ... 」と思われるかもしれませんが、実際にそう感じるという

ことが、それが真実である証拠にはなりません。喩えて言うなら、蜃気楼のごとく、

実際に見えているけれども、実際には存在しないといった感じでしょうか。

 

そして、その区別をして対立して(いるように幻想して)しまうことも含めて、世界の

あらゆる営みは、この「一切の対立がない」ことがベースになっている、というのが、

禅の主張です。繰り返しになりますけれど。

 

さて、そのような完璧な土台の上に乗っかって、私たちはすったもんだやっているわけで、

坐禅というのも、その「すったもんだ」の中に入ります。ただ、すったもんだも様々で、

戦争や論争など、上に書いた「対立」の幻想を強めるものもあれば、一般的に言う精神的な

修練や道徳、瞑想技法のように、それを弱めようとして行われる営みもあります。

あるいは、その対立そのものが虚偽であったのだと、極めてダイレクトに真理に突入させる

ようなものもあります。坐禅は、これにあたります。

 

続きます。