メモ | 考えた事メモ (川越スピリチュアルカフェたまのを)

考えた事メモ (川越スピリチュアルカフェたまのを)

この素晴らしい愛の世界に
立ち続けられますように


日常の中でふと感じた事をどれだけ見逃さずに
しっかり捉えて自分の中で開けて見てあげられるか。

最近はもう人に腹が立ったりイラついたら
速やかに自分がそれを出来る方向へといけるように、
包みを開けて見るようにしています。

小さな事だから簡単に出来るんだと思うけど、
大きな事(根の深過ぎる思い込みとか頑固に染み付いた常識を外す為のイベント)になってくると
いつまでも腹を立ててたり自分が正当な理由を並べたりして
自然とそうなれないようになってくるんだと思うけど。

ある意味分かりやすい。



一昨日かな。
後輩がずっと手が空いてたのに
大変な仕事と簡単な仕事が同時に来た時に
簡単な仕事の方に着いた。

『おいおいおい〜重い方やれよ〜〜あんた休んでただろ〜〜
若手ってほんとに「私がやります」とか「やらせて下さい」みたいな事言えないよね。自主性無いよね。腹立つわ〜』って
腹の中真っ黒になって文句言い始めるのね。

文句言いながら、でも心のどこかでは

「これ(こうなった現実)を選んでるのは自分」って思っている。


腹立てながらも、「その通り」と思う。


だって後輩は私に気を遣わずに自分のぺースで仕事をしているだけ。

何で腹が立つんだろう。



それは
マイペースに生きようとする私に大人たちが向けて来た視線。

うんうん、腹立つよね〜。
なんでそんな事で、『気を遣え』って怒られなきゃいけないの って思う。

そうだよね。
それが後輩の思いだよね。

じゃあなんで「お前がやれよ」って思うんだと思う?
大人達がその厳しさを向ける意味は?



...私は
「新人として、後輩として率先してやらないといけない」って私が勝手に思い込んでいたから。
ずっと責任を感じながら、ここまで先輩と働いて来たから。
若手がやらなきゃいけない と当たり前に思って来たから。


うんうん。

それで幸せに、楽に働けてた?


全然。
いつも緊張して周りに気を張り巡らせて、
いつもいつも何かを気にかけていた。
先輩達がサボって大量に残した仕事を「ふざけんなよ、喋ってないでやれよ」って
すっっっごい腹立てながら、歯を食いしばりながら
良い関係を保つ為にやってた。
全然やりたくなかった。



うん。
自分は今の後輩みたいにマイペースには生活(仕事)出来なかったんだよね。

苦しかったね。

『私はこんだけ努力してきたんだから、
あんたらも当たり前にそうしろ!!それが一般常識だ!!文句言うな!!!』ってね。



苦しいね。


でも分かったよね。
押し付けちゃう側の気持ちが。

お父さんやお母さん、過激派のばあちゃんもみんな、
私を締め付けてきたと思ってた人達も同じなんだよね。

分かったよね、やっちゃう側の気持ちが。

されてあんなに嫌だって思ったはずなのに、
また誰かに向けてなんて本当はやりたく無いよね。


もう辞めよう。
辛かったね、私。
ここで捨てよう。


もう目上の人と対峙した時に
「私がやります、準備しました、もう終わらせてます」とかって気を回すのは辞めよう。

その分気を回せない人達の事も許容できるようになるし、

「やらなきゃいけない」がかかっていないと、
もしやりたく無いなら同じ場面で後輩に
『重い方やってもらっていい?』って自然に言える気がする。

絶対そっちの方が楽じゃん。



って思ったら
そこからまた更に仕事が楽になりました。
「仕事」じゃなくて、「生活」って感じになりました。


誰かに腹が立つ時には、
どこかに「ねばならない」とか「〇〇としての責任があるから」が付いて隠れているかもしれない。

私が後輩に腹を立てたのも
自分が後輩だった頃にずっと頭に置いてきた「後輩として気を回さなければならない」があったからだし、

年末先生が私に「優しくしてあげて下さい」って言ったのも
私がその先生が放つ感覚?言う言葉に腑に落ちなかったのも
もしかしたら先生も「トップの人間として、職場の人間関係の治安を保たなければいけない」っていう
他人の目を気にした責任感 がその言葉に含まれていたからかもしれない。

だから私にもすんなり入って来なかった。


逆にそれが無かったから、
もう一人の先生の言葉はすんなりと入ってきて
私の両肩に乗っていた「責任」の重荷が取れたのかもしれないな と。






朝まだ眠い中で、「ああ〜時間だ。起きなきゃ」って思った。

仕事に行かないといけないので当然起きます。

「...あれ?起きなきゃいけない。ねばならない。のに、毎日「ねばならない」をやっているのに
何でこれには腹が立たないんだろう。根に持たないんだろう。」と思いました。


考えながら歩いて仕事に向かっていると
はたまたビワさんの声で
『自分で決めているから』と思いました。


...そうかびっくり

自分で決めて起こす責任感と、
他人からあれこれ言われたり罰せられるからっていう
恐怖からの?責任感というか
人目がかかった責任感を行動に移すとなると

それは自分で決めた責任にはならないのか。

自分で、自発的に決めた責任を果たす為の行動には
ストレスがかかったり
それを起こした後に腹が立ったりする現実は起こらないのかもしれない...キョロキョロ


と思いました。

おおおお〜〜〜なんか凄いコツが分かった気がするぞ〜〜〜笑

朝起きて仕事に行くために身体を起こすのにも
この会社を遅刻するわけにはいかない理由が
「職場の人ににどう思われるか」や「それが原因でクビになったら親になんと言われるか」って
人から目線の責任を果たそうとしてやると
もう本当は全然行きたくなくなるのか〜。


それが、自発的な責任というか
「やる必要がある事」として自分で思ってやる分には
どんどんどんどん普段の私、一人でいる時や休日の気の抜け方と何ら変わらなくなってくるのかな と。(最近の私。「仕事」ではなく、「生活」に。)



ここでやっと話戻りますけど
年末先生に腹が立った私は私で「良い部下である為にここで「あんたの行動を正せ」と言われるわけにはいかない」と思ってたのかなと思うし、
(いつでも地位が下がっていいと思ってたり何言われても良いと思って生きてたらそんなに腹も立たなかっただろうし)

私の母親は母親で『親として子をいつまでも心配してないといけない、手を尽くしてあげないといけない』って思ってたのかもしれないし

私は私で『親の期待に応える良い子、優しい子』っていうのをやらなきゃいけないと思っていたのかもしれない。

反抗しても後悔する子、しない子いるでしょ。
後悔するから悪いことしてるみたいになる。
戻って来ない子はいつの間にか周りも諦めて『あの子は自由だから』って受け入れられるかもしれない。



うーん。

つまりこの世の中思い込みだらけ。笑

そういやたまのをでもしょっちゅう聞くワードでした。




人の話や本で得た知識は
それに染まる為に入れるのではありません。
それを元にした行動に変えていく為ではありません。

一旦インプットしたものは
自分の日々の感覚を内側で開けて見て
自分に問う時に初めてその記憶が抜群のタイミング引き出されるのです。

自分に必要な記憶(知識や経験)が内側を通して伝えられる時、
初めて腑に落ちて「分かる」という感覚になる。

今回の「ねばならない」にしても、
自己啓発本とかスピリチュアルの人たちは「ねばならないを辞めましょう」って散々言ってる。

けど
頭での理解と
内側と自分の体験を通しての理解では、まるで違うね っていう話。

そう。
つまり自己啓発本を漁って職場でやってみて「本当に生きやすくなったぞ!!」っていうのを期待するよりは

リラックスした、本当の自分に近い自分を作るために
沢山遊ぶ、好きな事をする、嬉しいと思える事をする時間を作った方が
内側の言葉を感じやすくなると思うし
そのままの気の抜けた自分を外でも発揮した方が色々上手く回り始めるって気付けるんじゃないかなと思います。


って言っといて
ここまでくるのにかなりの苦悩と試行錯誤の日々でした。

気を抜いて仕事をする=死 だと思ってました。

でも違う。

気を抜いて内側とのコミュニケーションを取りながら生き始めると、
ヒットマンみたいに動けるようになるっていうびっくり








...っと
長くなり過ぎたのでここで終わり。

何が言いたかったんだっけ。
最後の方にくるといつもわからなくなるなニコ

最近は凄く仕事が楽です。

皆様も良い月曜日を。


おしまい✨