Inscryptionのストーリーを考察したい#28 恐怖と安らぎ・天秤を傾けるもの・真の勝者 | 書いたり、書かなかったり

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Inscryptionのストーリー考察記事を毎週土曜日に更新していました

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どうもこんにちは。

最近『英語の歴史から考える英文法の「なぜ」2』を読んでいるのですが、目からウロコの連続です。

無印が学校で習う標準英語の「なぜ」だったのに対して2は非標準英語の「なぜ」についてで、
Inscryptionではセリフ中にこうした非標準の書かれ方(getをgitと書く、弱発音部分がアポストロフィで省略されるなど)があるのでとても参考になります。


一番びっくりしたのは「過去でも現在形を使う」という黒人英語に特によく見られるという用法です。
あるキャラクターがlast timeって言ってるのに現在形使ってるなあ、他では過去形も使ってるのになあと思っていたのですが、
過去なことが明らかな文脈では現在形を使うことがあるそうなので、もしかしたらこれなのかも?

だとすると、三単現のsがつくべきところでついていないのはカタコトだからか、
過去を表しているからなのか? とか考えることが増えますね……! 
受験英語畑出身の人間なのでとてもワクワクします。



さて、今日もInscryptionのストーリー考察をしていこうと思います。
ネタバレ注意!













考察ネタお題箱




考察記事もくじ







表記について






































































目次

▶︎生と死の対立
▶︎天秤を傾けるだけの価値
▶︎本当の勝者は
▶︎おまけ:レシーの森






今回はロア考察としては久々にマグニフィカスから離れて、Act1を中心にレシーの話を詰め合わせて書いていきます。



生と死の対立


#10で、レシーとグリモラの死生観の対立について書きました。

具体的には、強者が生きるために弱者の死を必要とするサイクルと、

死者を蘇らせて生を繰り返すサイクル。

そこに補足をしていきます。


 


レシーは弱いことに対して厳しいですが、生きるということについても独自の思想を持っているようです。



Act2の最終決戦でレシーを選んでも「慎重に管理された生と死のサイクルだ。興奮、恐怖、神秘だ(A carefully curated cycle of life and death. Excitement. Terror. Mystery.)」と述べますが、

この思想がはっきりと説明されるセリフを、Act1でレシーを複数回打倒した時に聞くことができます。

 

生命とは、殺しの興奮と死の恐怖から成り立っている

(原文:LIFE IS THE THRILL OF THE KILL AND THE WOE OF THE VANQUISHED.)


文字が揺れるのでスクショが綺麗に撮れない……


 

その前には、食事をして息をして寝て、それは生の在り方ではないと語ります。

 

 

生きることは殺される恐怖から相手を殺し、そのことに興奮を覚えてこそのもので、

そのため生と死は相反しながらも一対のものである


だから”For the kill is only as satisfying as the struggle that precedes it.”

(Act2、レシーに敗北した時のセリフ。日本語版はやや訳ミスあり。「戦いにおける殺し(の興奮)だけが、戦闘そのものに匹敵する満足感を与えてくれるのだから(戦闘が短いかったことが悔やまれる)」くらいの意味)

なのでしょう。


そしてそうした生と死のサイクルを「神秘(Mystery)」として尊んでいる。



​戦いも、戦いによる殺しの興奮ももっと長く楽しみたいのだ、くらいの感じ



レシーにとっての生と死が興奮と恐怖を対にしたものであるのに対して、

グリモラは「死は終わりにはならない(Act2、グリモラ戦ギミック発動時)と言う通り、死は蘇ることによる生に繋がるものと考えているようです。



また、もう一つの考え方として、グリモラが死を安らぎと考えていると見ることもできます※。



これはカードゲームの話ではありませんが、

グリモラはAct4において「私の長い人生の終わり」である削除の時に「休む時が来たのよ。」と言います。


また、レシーとマグニフィカスに対しても「安らかに眠って。」と伝えており、

死は休息であり、安らぎであるという思想が垣間見えます。


その観点で言うと、死んで生き返るまでの間というのは、休息の時間だということなのかもしれません。



※Act2で初めてグリモラの神殿を訪れた際の「私の愛しのグールたちがどの墓に眠っているか当てるのよ。」の原文は「You must discern which tomb marks the final resting places of my lovely Ghouls.」で、墓場の比喩表現に「休息所」を使っています。

一方、ソウヤーは挑戦者が話しかけた時のセリフに休ませてほしい旨のものもあるのですが……。



​ここで出る削除ウインドウは特に有意義情報ありませんでした



一方で、2人のカードに共通するものがあります。

です。



Act1の一部のカードはコストとして骨を必要としますが、

本来のゲームであろうAct2には存在しないシステムで、これは恐らく死のカード由来のものでしょう。

Act2の最初にグリモラを選ぶと、挑戦者が骨の扱いを知っていることに対し、

私が虫として過ごした時間も、無駄ではなかったんだわ。」と言います。



骨について作中ではっきりしたロアはありません

グリモラは「私のカードを出すには、骨を集める必要があるわ。骨が手に入るのは…」としか言いませんし、

Act1でのレシーのチュートリアルでも、骨は使い方しか説明されません。



​オポッサムが有能以上の話はありません


これまでの延長という形で考えると、

グリモラは死体を蘇らせる、死体をもう一度使うという扱いで骨をコストにしている。


それに対して、レシーは生きた血肉ばかりでなく死骸すら糧に生きることを指して骨コストを導入したのではないか、

というのが筆者の推測です。




天秤を傾けるだけの価値


さて。

この切り口から、ペンチについて書いてみます。



アイテムマスに最初に止まった時、「使いやすい道具として入手するのがペンチです。

リス瓶・ペンチはその後デフォルトアイテムになり、特別な短剣を手に入れるとペンチと入れ替わりになるのですが、

この二つはどちらも「一瞬の痛み」を伴うアイテムです。


具体的には歯を抜き、目玉をくり抜いて天秤に重りを追加することになります



詐欺では?


これらが「そういう設定」になっている、というのは#20で書いた通りです。



ではなぜ「そういう設定」のアイテムを用意したのか?



これが先ほどの「死への恐怖」につながる話になります。


レシーのカードゲームでは敗北=死です。

カードバトルで敗北して「命の象徴であるろうそく」が消えてしまうと、レシーによって殺されてしまう。



その死を回避したいなら、「一瞬の痛み」を乗り越えて自分の体の一部を捧げてみせろ。

天秤に一つおまけを加えるにはそれだけのことをする必要がある。

そういう意図のアイテムなのではないかと思います。




前述の通り、死の恐怖はレシーが望む生き方にはなくてはならないものです。

レシーが楽しむため、そして挑戦者に楽しんでもらうためのAct1の世界を象徴するアイテムとも言えるかもしれません。




なお、Act3で不シギを倒した後、東ボットピアのウェイポイントにペンチの写真が出現します。

不シギにとっても印象的なアイテムだったのかも?






本当の勝者


もう一つ、この流れでカメラについて書きたいと思います。


スライムが話す通り、レシーを倒した挑戦者だけが伝説のカメラに手を触れることができます。


フィルムロールを入手していない場合、レシーが「フィルムロールが入っていないと使えない」と言って、

チャンピオンとなった挑戦者を記録するためにカメラを奪い取ります。



しかし、勝者だからといってなぜカメラに触らせてくれるのか?


気を落とすでない。君は勝者なのだ。」というセリフからして、

挑戦者が失望することは理解しているようです。



​ここで撮るのはなぜなんだろう、片付けがラクだから?


勝者だからこそレシーに反撃をするチャンスを与えているのかとも思いましたが、

それだと「この恩知らずめ!」という発言に矛盾します。

レシーからすると挑戦者本人も楽しんでいると思っているわけなので(#17参照)、この線は薄いでしょう。




そこで考えたのは、「カメラに触らせることで挑戦者が敗者になる」という理屈です。



カードゲームでレシーに勝ったという意味では挑戦者は「勝者」です。


当然ながらレシーは世界の支配者であり続け、カードゲームをし続けたい。

しかし、弱肉強食の理を徹底するなら、レシーは挑戦者に勝つ必要があります。



そこで、挑戦者には使うことのできないカメラを手にさせることで、

カメラを使えない=このゲーム世界における真の勝者はレシーである、という構図を作り出したのではないか。




​で、これが真に敗北した瞬間であると



ただ、例によってウィークポイントはあります。

それならば最初からエンドレスのゲームにすればよかったのに、なぜクリアのあるゲームにしたのか?

なぜチャンピオンになっても最初からやり直しという形を選んだのか?




こちらについては、レシーの用意したロアに起因するのではないかと思います。


レシーの用意したすごろくカードゲームは、それぞれ配下である探鉱者がボスの森林マップ、釣り人がボスの湿地帯マップ、罠猟師・商人がボスの雪線地帯マップを通り、

最後に森を抜けて小屋に到達して最終ボスであるレシーと闘う形になります。


これは元々のゲームに由来しているところが大きいです。

#16でも書いたように、Act1のマップはAct2のワールドマップにおける獣の神殿がベースになっています。



旅の終着点」とあるように、レシーのゲームは野を越え山を越えて山小屋でレシーを倒すまでの旅路です。

この、Act2ベースでロアを用意したために、レシーの用意したゲームはクリアがあるものになったのではないかと考察します。






……というのはストーリー(ロア)上の話で、メタ的には「クリアしたのに終わらない」ことがポイントなのだろうと思います。

ルークも「なぜこのゲームがまだ終わってない?」と発言しますしね。



​びっくりカーダー



やっとすごろくカードゲームでラスボスを倒したのに、道中でゲームオーバーになったのと同じように殺されて、また初めから。


このゲームのクリアとは何なのか? そもそもこのゲームは何なのか?

というのがAct1のキモなのだと思います。




おまけ:レシーの森


おまけ。

レシーの森(LESHY’S WOODS)について。


マップ4のドクロマークに止まると小屋の灯りが消える演出がされ、

いつのまにか森の中を進んでいる形になります。


歩いて行くと月が上り、ドガシャーンと門が設置され、

巨大なレシーの手が木の板を差し出して試練が始まる……という流れです。



​「これはAct2の獣の神殿の門ではないか」とTwitterで教えていただきました。

形がそっくりなのでおそらく正解



こちら、どうやら本当に挑戦者は小さくなっている(またはレシーが大きくなっている)ようです。



リングの試練で、日本語版で「君のリングを見逃しそうになった。」というセリフがあります。


こちら原文では「高いところから見下ろしているので」(UP FROM HERE)リングを見逃しそうになった、

ということが分かります(探したのですがスクショ発見できず……)




リングのセリフ回収も進めたい




また、試練を終えてさらに森を進み、小屋の中に入るとまたいつもの山小屋に「戻って」きます。

このレシーが言う「やっと戻ってきたか。」や「長い間森を歩いていたようだな。」(後者もスクショがなくうろ覚え)も、

実際に挑戦者が森のマップを歩いていたことを指すものと思われます。


今回闘うのはこのゲームマスター本人なのだと、世界観に没入できる素敵な演出ですよね。


​スクショ見つからない事例が多くてすみませんでした……







ペンチまわりの話は特別な短剣の話を書く時についでに書きたかったのですが、単体だと字数が微妙だけど抱き合わせにすると内容が合わない……ということで今回レシー関連をまとめて1記事分にできてよかったです。


次回はAct3商人について書ければと思っています。

メインの論拠が木彫り師ARGになってしまいかなり気が引けますが……。


体調が悪い中絵を描いたりしていたら(アホ)ますますすんごい具合が悪くなってしまったので、休む時はちゃんと休もうと思います。

もしかしたら一度スキップするか、水曜日に更新をずらすかも……。