【読書日記】『福田恒存評論集・第9巻・独断的な、余りに独断的な』(福田恒存) | 「そば屋さのあんちゃん、息災け?」

「そば屋さのあんちゃん、息災け?」

稀有な病気をはじめ、人のあまり経験しないことを経験しました。
そんなことを織り込みながら、日ごろの読書を中心に綴っていければと思います。

『福田恒存評論集・第9巻・独断的な、余りに独断的な』(福田恒存)。

 

「本当の日本人」とは?

 

9年前にFacebookに投稿した記事を加筆修正の上、ブログに移植したもの。

 

『福田恒存評論集・第9巻・独断的な、余りに独断的な』(本文、372頁)のサブタイトルでもある「独断的な、余りに独断的な」の『ひと言ー佐伯氏の場合について』という小論にあったものです。

 

旧漢字などは、変換等できないものもありますので、やむをえず、言文一致体に変えております。

これって、悔しいですわ。

 

少し長い引用ですが、非常に考えさせられましたので、ご紹介させていただきます。

ーーーーーーーーーーーーーー

上は一流から下は佐伯氏の言う「底層」に至るまで、上下だの一流「低層」だのという相違をおよそ問題にせず、意識もしない生き方もあり、今日の青少年の大方はこれに属する。

そういう人達に向って、「お前は二流の人物だが、それなりに本物である事だけは確かだ」と言って見たところで「安堵」もしなければ、「誇り」も持たぬであろう。

彼等には本物だの贋物だのという意識がすでに無いからである。

が、私が二流、三流でも本物であり得ると言ったのは、こういう人達の事ではなく、自分が一流でない事を素直に自覚し、しかも一流を識別し得る能力を有し、一流に対する敬意と讃仰(さんぎょう)の念を保持している人達の事である。

それに反して、二流でありながら一流の如く扱われ、自分もまたいい気になってその様に振舞っている人間を、私達は贋物と呼ぶのである。

右の一流と言う言葉を西洋という言葉に置き換えて見てもいい。

私は何も西洋が一流で、近代日本が二流だと思っているのではない。

ただそう思った場合、或は知らず識らずのうちにそう思い込んでいる場合があり、そういう人達がいる事は確かである。

その彼等が日本人たる自分に西洋に及び難き物のある事を素直に認め、西洋のうちに一流を識別し得る能力を有し、その一流たる西洋に対して、敬意と讃仰の念を保持し得るなら、彼等もまた本物である。

詰り、本当の日本人である。

 

(P149~150)

ーーーーーーーーーーーーーー

(2015・5・30読了)

 

これは、川端康成氏の「ノーベル文学賞」受賞に対する一件で、著されたという背景があります。

冒頭に、「セルフ・アイデンティティの意味」についての項を設ける念の入れようです。

周囲に対して、怒りを露わにしているのが伝わってきます。

 

これは「新潮」に昭和49年1月号から、途中、あいだをあけつつ、昭和50年3月号まで連載された経緯があります。

表題を入れ、145頁の評論であることを申し添えておきます。