『死生論』(曽野綾子)。
「透明な歳月の光」。
約8年前に、病気を発症し、「症状的に、もしかしたら、このまま死ぬのかなあ」という、入院生活・リハビリ入院生活を送ったこともあり、本書(本文266頁)に食指が伸びました。
その中から、付箋を貼ったところを中心に、抜き書きしたいと思います。
まず、章立てをリストしておきます。
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1・途方もない解放
2・人間の弱さといういとおしさ
3・「不便さ」の効用
4・善良で最悪な社会
5・どこまでが「ひとごと」か
6・スローモーションの生き方
7・危機に学ぶ
8・職業に適した年齢
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今回は、「「いい加減」な部分にこそ人間味」から。
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人間はある作業をすれば、これまた必ず「アラ」を出す。
つまり、手ぬきをし、間違いをしでかし、いい加減に扱って伝達の目的をうまく達せられない。
そういう時、人はまた、同じ言葉を使う。
将来はこの点を「しっかり」「きっちり」直す、と言う。
テレビに出てくる政治家や公務員たちは決まって「しっかり」「きっちり」やっていくようにします、と言う。
「しっかり」と「きっちり」は、ほぼ百パーセント果たさない約束語の特徴だ。
しかしこういう言葉は、いかがわしいから追放しろ、と私は思わない。
言葉というものの実に八十パーセントくらいは、不正確でいかがわしいものだからである。
その部分があるから、人の言葉も、人間そのものも味のあるものになっている。
(P145)
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(2020・7・12読了)