《あの伝説“石の拳”パナマの英雄 ロベルト・デュランが映画になる!》特別編/No.300 | ◆ ボクシングを愛する猫パンチ男のブログ ◆

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  名王者ロベルト・デュランが映画になる!

ボクシングファンなら、だれもが知っている4階級世界制覇王者で“石の拳”を持つ男と呼ばれたロベルト・デュラン(パナマ)が、ついに映画になります。
実在したボクサーの伝記映画は、本人が亡くなってからのものが多いのですが、数少ない本人存命中の映画なのです。
’70年代前半から’80年代後半まで大活躍して世界中のボクシングファンを熱狂の渦に巻き込んだロベルト・デュランの激闘ぶりは今持って世界中で語り継がれているのです。
そして、最大のライバルとなった米国の国民的スーパースターシュガー・レイ・レナードとの対戦を絡めて、米国人の名トレーナーレイ・アーセルとの絆と葛藤が描かれます。
メガフォンを取るのはベネズエラ人の若手アクション映画監督ジョナサン・ヤクボウィッツ(34)が脚本も兼ねて描く伝記映画です。
既に、昨年6月4日からクランクインしてプエルトリコで撮影が開始されています。
しかし、ネット情報を収集すると、配給会社が決まっていないこともあり撮影には時間がかかるとのこと。
また、クランクアップ次第、まずは、全米都市から封切られるとの情報です。
映画の出来映えも気になりますが、日本での公開はどうなるのかも気になります。

原題『HANDS OF STONE』

ーSTAFFー

監督・脚本
ジョナサン・ヤクボウィッツ
2000年『SHIPS OF HOPE』/2002年『DISTANCE』
2005年『ベネズエラ・サバイバル』他。アクションものを得意とする映画監督。
〈映画を撮るにあたってのコメント〉
監督いわく「ロベルト・デュランは、ボクシングのライト級史上最強の1人であるだけでなく、世界中で抑圧された人々達を刺激し、リングで戦うことが名誉であることを示した伝説的な英雄であった・・・」とのコメント。
また、重ねて「配役に相応しい最高の俳優陣と、最高のスタッフ陣で撮影に臨み、そして、世界中の人々に感動を与える最高の映画を作り上げたい」と述べています。

製作プロデューサー
ベンジャミン・シルバーマン
2005年『THE OFFICE』のプロデュースなどTVドラマのシリーズものを手掛ける。
2006年、TVコメディドラマ『アグリー・ベティ』を世界的に大ヒットさせた名プロデューサー。最近、日本でもNHKで放送されていました。

撮影
ミゲール・ローマン・リッティンメンス
2004年『MACHUCA』/2006年『FUGA』/2011年『VIOLETA WENT TO HEAVEN』他。

音楽
アンジェロ・ミィリィ
2005年『SECUESTRO EXPRESS』/2006年『UNKNOWN』/2008年『SEVEN POUNDS』他。

美術
リサ・ヴァスコンセロス
2005年『MEMOIRS OF A GEISHA』/2011年『PIRATES OF THE CARIBEAN』他。

ーCASTー

主演
ガエル・ガルシア・ベルナル
2002年『チェ・ゲバラ&カストロ』のゲバラ役を熱演して人気俳優に。/日本でも話題となって各賞を獲得した、2006年『バベル』のサンティアゴ役のメキシカンスター:主役の世界王者ロベルト・デュラン役に大抜擢。演技が見ものです!

ロバート・デ・ニーロ
1974年『ゴッドファーザーPARTⅡ』のドン・ヴィトー・コルレオーネ役でアカデミー賞助演男優賞受賞/1976年『タクシードライバー』のトラビス役で人気爆発!/1980年『レイジングブル』で実在するボクサー(元世界ミドル級王者ジェイク・ラモッタ)役での大ヒット作品。このラモッタ役でアカデミー賞主演男優賞受賞の言わずと知れた大スター俳優。もう、ボクシング映画はお手の物。存在感のある演技が見ものです!:トレーナーの重要人物レイ・アーセル役。

アッシャー・テリー・レイモンド4世
通称はアッシャー(R&B・ヒップホップ系)の米国スター歌手。アッシャーは、国民的大スターボクサーのこの役が決まると、「トレーニングを積んでレナードになりきる。そして、歌い手だけではなく、アカデミー賞を狙う演技もできることを披露するよ!期待してて・・・」とのコメント。大変な力の入れようです。:世界王者シュガー・レイ・レナード役。

ライアン・クワンテン
2007年ホラー映画『デッド・サイレンス』主演のジェイミー・アーシェン役で一躍人気俳優となる。その後、米国のテレビホラードラマシリーズ2010年『トゥルーブラッド』のジェイソン・スタックハウス役を好演。他:世界王者ケン・ブキャナン役。

アナ・デ・アルマス
2006年『カリブの白い薔薇』出演/2009年『『セックスとパーティーと嘘』主演カローラ役の演技で一躍注目される。2012年『サイレント・ウェイ』出演・他。米国・中南米で絶世の美女として人気急上昇中のキューバ出身若手女優。2009年9月、東京・新宿バルト9「第6回ラテン・ビート映画祭」に来日した際、あまりの美しさに記者達も目を奪われたとか。(下の欄に写真あり):フェリシダッド・イグレシアス役。

アンディ・ガルシア
1989年『ブラック・レイン』チャーリー・ヴィンセント役/1990年『ゴッドファーザーⅢ』ヴィンセント・マンシーニ役など、数々の大作映画に出演した個性派俳優。:デュランのマネージャー、カルロス・エレタ役。

カルロス・バルデム
1999年『裸のマハ』出演/2008年『チェ39歳・別れの手紙』モイセス・ゲバラ役を演じて注目され人気俳優となった。他、:マヌエル・ノリエガ将軍役。

しかし、デュランの最初のライバルとなったエステバン・デ・へススの配役がないのが不満と言えます。

◆ロベルト・デュラン

ロベルト・デュランは1951年6月16日、パナマ・エンチョリーヨのスラム街に貧しい家庭のメキシコ人の父とパナマ人の母との間に誕生します。
家族構成はあまり詳しくは明かされてはいませんが、9人兄弟の大家族だったと言うことは分かっています。(兄弟の何番目かは不明)
デュランが物心付いた頃に父親が失踪蒸発したことで、母子家庭となってしまいました。
そんな家庭は極貧にさらされ、デュランは5歳の頃から止む無く靴磨きなどをして家族を助けていたと言われています。
しかし、その靴磨きをスラム街の近所の子供達にからかわれ、いじめに合うようになり、殴られたことが切っ掛けで、10代前半の頃からストリートファイトに明け暮れるようになっていきました。
体はさほど大きくないものの、腕っ節の強さからいつの間にかスラム街のガキ大将にのし上がっていきます。
そして、喧嘩に明け暮れていた15歳になったばかりの頃にボクシングに興味を持ち、地元のジムの門をくぐります。
この頃からは、単なる喧嘩ではなくスポーツとして戦うことに芽生えていきました。
ジムで鍛えられたデュランはみるみる内に頭角を現し、アマチュア大会やセミプロ大会に出場すると、強者達に打ち勝ち連勝していきます。
その存在が国中に広まると、まだ、プロデビュー前にも拘らず、その強さに「天才少年ボクサー現る」とスポーツ紙などで紹介され、たちまちパナマの評判になり注目されることになります。
16歳になった母親思いのデュラン少年は家族を助けるためにもプロフェショナルとして生きていく決意をするのでした。
そして、1968年2月23日、カルロス・メンドサ(パナマ)戦で4回判定勝ちのプロデビューを果たします。
喧嘩に明け暮れたガキ大将から芽生えたデュランのボクシング人生が、ここから始まったのです・・・

◆番狂わせで一躍脚光を浴びる・・・

デュランがデビューした頃のパナマはクーデターが起り、国内は混乱状態でもあったのです。
しかし、そんな状況下でも、勝ち続けてキャリアを積み上げていきます。
そして、キャリアを積み上げたデュランにチャンスが巡ってきたのでした。
28勝全勝(24KO)無敗を引っ提げ、遂に世界初挑戦するまでに駆け登ったのです。
1972年6月26日、デュランは米国ニューヨーク・ボクシングの殿堂マジソン・スクエア・ガーデンのリングに立つこととなります。
初挑戦するWBA世界ライト級王者のケン・ブキャナン(英国)は3度目の防衛戦。
当時、ブキャナンは技巧派のテクニシャンで安泰王者として王座を守り続けるであろうと予想されていました。
しかし、いざフタを開けてみると、ブキャナンは初回にダウンを奪われると12回までデュランの優勢な展開で進み、13回終了間際にデュランの強烈な右ボディーブローをもらいブキャナンはリングにうずくまって立ち上がれずカウントアウト。
この時、ブキャナン側はローブローだとして猛抗議する。
しかし、ローブローの主張は通らずブキャナンの戦意喪失とみなされデュランが初挑戦でのTKO勝ちで王座を獲得。
一斉に「番狂わせのカリビアン・ニュースター誕生!」と騒がれ一躍脚光を浴びることとなったのです。この時、まだ21歳になったばかりでした。
しかし、それも束の間タイトル獲得後の1972年11月17日に初防衛戦の為の調整試合としてノンタイトル10回戦を組まれた試合に、当時、売り出し中の34戦33勝(20KO)1敗と脅威の戦績を誇る強打者エステバン・デ・ヘスス(プエルトリコ)と戦うことになり、試合が開始されると、初回にへススの強烈な左フックでダウン。
立ち上がって挽回を狙ったものの、盛り返すことが出来ずにまさかの10回判定負け。
初黒星を喫して、連勝も31でストップされてしまう屈辱を味わいます。
この負けを機会に、今までの強引な力任せのファイタースタイルから一新してアウトボクシング(打っては離れて)を含めたスタイルとブローテクニックに磨きをかけたのでした。

◆日本人選手との対戦も・・・

1971年10月16日
小林 弘(中村)に7回0分30秒でのKO勝ち。元WBA・WBC世界Sフェザー級王者の小林はこの敗戦後に引退。デュランが王者になる前の20歳になった頃のノンタイトル試合。この試合で世界ランクをアップさせ、波に乗って(2試合を挟んで)世界挑戦への切っ掛けともなりました。(地元パナマ)

1973年9月8日
鈴木 石松(ヨネクラ)後のガッツ石松に10回2分10秒でのTKO勝ち。ガッツ石松は初挑戦のイスマエル・ラグナ(パナマ)に続き2度目の王座挑戦も阻まれる。デュランが王者になっての3度目の防衛戦(地元パナマ)

1974年12月21日
高山 将孝(P堀口)に僅か1回1分40秒でのKO勝ち。高山は日本ライト級王者として挑んだが歯が立たなかった。デュランの5度目の防衛戦(コスタリカ・サンホセ)

当時、日本人選手は2人挑戦したが、ともにノックアウト負けでデュランがこの階級の王座に君臨している間は日本人選手では到底歯が立たないと言われていた。
たとえ、他の日本人選手が挑戦しても防衛回数を献上するだけだったとも。
それ程、途轍もない強さだった。

◆名トレーナーのアーセルとの出会い・・・

しかし、この頃、ノンタイトル戦とはいえ、唯一黒星を喫したエステバン・デ・へススへのライバル心は大いに燃えていたようです。
そして、1974年3月16日、再びへススとの4度目の防衛戦でグローブを交えると、またもや初回にダウンを奪われる最悪のスタートとなった。
しかし、再び敗北が頭をよぎったか、デュランは奮起して徐々に盛り返し11回左右連打で畳み掛けて1分11秒での逆転KOで初黒星の借りを返し雪辱を果たしたのでした。
そして、この頃から元NBA(WBAの前身)世界ミドル級の伝説的王者トニー・ゼールや元NBA世界ヘビー級王者イザード・チャールズ(米国=伝説的王者のロッキー・マルシアーノと激闘を演じた)など歴史に遺る名選手を育てあげた米国人の名トレーナーレイ・アーセル(米国)がパナマの元WBA世界Jウェルター級王者アルフォンソ・フレーザーを教えていた関係でデュランと出会い担当することとなるのです。
1975年の後半から母国パナマの混乱が続いていることもあって、レイ・アーセルの力添えでデュランは、米国を主戦場とするようになっていきます。
その後、ライバル、へススも3度目の世界挑戦で1976年5月8日、ロドルフォ・ゴンザレス(メキシコ)に8回KO勝ちでWBC世界ライト級王者となっていたガッツ石松(ヨネクラ)に地元のプエルトリコ・バヤモンで挑み15回判定勝ちして初戴冠となった。ガッツ石松は6度目の防衛に失敗して王座から陥落。
へススとのライバル意識も最高潮に達していたデュランは自分の保持するWBA王座とへススの保持するWBC王座の統一を熱望。へスス側も再々戦を受諾。
もう、この頃からデュランは強打の“石の拳”として世界中に名前が知れ渡っていたのでした。
米国のプロモーターが放っておくはずもなかったのです。
エステバン・デ・へススとの再々戦を米国ネバダ州ラスベガス・セザールパレスでの開催を決定。
1978年1月21日、再々戦のゴングが鳴ると、お互い知り尽くした感のある試合運びだったが、デュランが徐々に左右のプレスを強めて12回一気に連打して12回2分32秒でのTKOで下して王座を統一。保持するWBAライト級は12度目の防衛となった。
そして、最初にライバルとして大いに闘争心を燃やした対へスス戦は3戦2勝(2KO)1敗となりました。
これで、米国・中南米はおろか世界中のボクシングファンに押しも押されもせぬ人気スターとなったのです。
その後、2階級制覇を目指す為にWBA・WBC世界ライト級統一王座を返上する。

’73年9/8・ガッツ石松に10回TKO勝ち
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(’74年3/16・へススとのリマッチで11回TKO勝ち)
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◆スーパースターのシュガー・レイ・レナードとの対戦・・・

アメリカの国民的スターのWBC世界ウェルター級王者シュガー・レイ・レナードと2階級制覇を目指す元WBA・WBC世界ライト級統一王者ロベルト・デュランの対戦は世界中のボクシングファンが注目したビッグマッチ。
レナードは1976年モントリオール五輪のライトウェルター級で金メダルを獲得して1977年に鳴り物入りでプロデビューすると、25勝(16KO)無敗の破竹の勢いで勝ち進んでいった。
そして、1979年11月30日、当時のWBC世界ウェルター級王者のウィルフレド・ベニテス(プエルトリコ)に挑戦すると最終ラウンド15回にTKO勝ちして、初挑戦ながら見事に王座を獲得する。
初防衛戦ではディブ・ボーイ・グリーン(英国)を4回KOで退け防衛に成功します。
そして、「時の暴れん坊」デュランとの2度目の防衛戦が決定したのでした。
この時のレナードの戦績は27勝(18KO)無敗。
対するデュランは72戦71勝(56KO)1敗。
また、決定したデュランの母国パナマと米国はパナマ運河の管理権(利権)問題で国家間の政治的争いもあって、大いに盛り上がる格好となったのです。勿論、日本でも話題が沸騰したのでした。
巷の予想ではレナードがスピード、テクニックで圧倒的に勝利するだろうと言う人が多く、デュラン勝利は少数派だった。

1980年6月20日、会場はカナダ・ケベック州モントリオールオリンピックスタジアム。
オリンピアンエリートのレナードか、それとも叩き上げのデュランかの対決。
遂に幕は切って落とされた。

序盤からデュランが左右で攻める好調なスタートを切った。
2回にはデュランが右ストレート、左フックの猛攻撃。
4回に入るとデュランが強烈な右ストレートでレナードをグラつかせて完全に優位な展開となる。
前半戦をデュランが終始攻めて圧倒する形となった。
しかし、中盤になると飛ばし過ぎたデュランがスタミナ切れで動きが鈍くなっていく。
7回あたりからレナード本来の動きが出てくる。
そこを、ここぞとばかりに出入りを激しくさせたレナードがショートパンチで攻め込む。
10回から最終ラウンドまで両者は激しく打ち合いスタミナ切れしたデュランだったが、要所々で有効打をヒットさせながら試合は終わった。
前半戦がデュランで後半戦がレナードといった形の戦いだった。
試合が終わると、レナードは両手を上げて勝利をアピール。
デュランはレナードのコーナーを見て何かを罵倒していた。
結果は、、、

〈採点結果〉
145ー144(デュラン)
148ー147(デュラン)
146ー144(デュラン)
3ー0
結局、1P・1P・2Pの僅差ながらデュランの判定勝ちで2階級制覇に成功。
米国の大スターであるレナードは持ち合わせる攻防兼備さを出せぬまま28戦目にして初敗北となりました。

デュランのこの勝利に母国パナマでは大騒ぎとなったのです。
また、帰国には大統領専用機での凱旋帰国となり、6月20日を「デュランの日」として祝日が設けられるほどの英雄となったのです。(祝日はその後に廃止)
この頃がデュランの絶頂期でもありました。

レナードに15回判定勝ち。当時はまだ15回制.右側
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◆前代未聞の放棄試合“NO MAS”事件とは・・・

レナードとの第1戦目はデュランが大方の予想をくつがえし強打の右ストレートでグラつかせるなどして僅差ながらも判定勝ちを収めて2階級目のWBC世界ウェルター級王座を獲得したのだった。
そして、レナードにとっては2階級も下から上がってきたデュランに敗北させられた屈辱から何がなんでもリベンジすることしか頭にありませんでした。
レナードのその熱望は5カ月後に実現することとなります。

1980年11月25日、会場のルイジアナ州ニューオーリンズ・スーパードームは試合前から観客の騒めきは鳴り止まず、そのまま試合に突入していきます。

序盤からレナードが左ジャブを突いて速い右ストレートを打ち込みながら縦横無尽に動き回る。
デュランも右ストレートで対応するが、明らかに前回とは違うレナードの動きに戸惑いを見せる。
そう、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」
もう、それは、あのモハメド・アリを彷彿させる動きだった。
それも、そのはずモハメド・アリを見ていたアンジェロ・ダンディーがセコンドに就いて前回とは違った作戦を練ったに違いなかったのです。
デュランは相変わらず、強打の隙をうかがうノシノシといった動きの戦いぶりを崩さず。

4回、レナードが左右アッパー、ワンツーと攻め込む。
デュランも負けじとワンツー、左アッパーと攻め込む。

5回に突入すると、前半をレナード優位と感じたか、デュランが強烈な右ストレート、右アッパーと猛攻を仕掛ける。終盤にレナードがあわやのスリップダウン。

6回、レナードは相変わらず速い左ジャブからワンツーと攻め込む。
デュランも負けじと左アッパー、ワンツーと打ち込む。

7回、レナードが左ジャブから接近して左アッパーを放つと、体を左右に振って両手で打ってこいという仕草で挑発。
デュランも左右フックで応戦するが、動きが鈍り始める。

そして、前代未聞の場面が・・・
8回、レナードがデュランの動きを見て仕掛ける。ラウンド終盤レナードが右ストレート、左ジャブと突いて右アッパーでデュランをグラつかせる。更に左右フックを浴びせるとデュランが横向きになったところでレフェリーが割って入りブレイクして試合を促すと、デュランは“突然”戦うことを止めてしまったのです。
そこで、放った言葉が語り草となる「“NO MAS”~もうたくさんだ!」だったのです。
結局、デュランが試合放棄したとみなされて8回2分44秒でのTKO負けとなってしまったのです。
しかし、そこまでのスコア(7回までの採点)はジャッジ2者が66ー68で(レナード支持)、もう1人が66ー67(レナード)と僅か2P・2P・1P差の接戦を物語った戦いでもありました。
どうやら、デュランは真っ向からの打ち合いをのぞんでいたようでした。
打っては離れる「レナードの逃げるようなアウトボクシングに嫌気が差した!」と試合後に語っています。
また、この試合はトレーナーのレイ・アーセルとアンジェロ・ダンディーの戦いでもありました。

そして、今もって語り草となっているこの試合を境に、デュランは勝ったり負けたりと勢いが衰え凋落が見え隠れしてくるのでした。

◆凋落見え隠れでも4階級制覇を達成・・・

1983年6月13日、WBA世界Sウェルター級王者のデビー・ムーア(米国)に8回TKOで下して3階級目制覇に成功。
1983年11月10日、マービン・ハグラー(米国)の持つ3団体統一ミドル級王座に挑戦するも15回判定負け。
1984月6月15日、WBC世界Sウェルター級王者のトーマス・ハーンズ(米国)に挑戦も一方的な2回TKO負け。
1989年2月24日、WBC世界ミドル級王者のアイラン・バークレー(米国)を12回判定で下して、見事に4階級目を制覇したのでした。
1989年12月7日、WBC世界Sウェルター級王者のシュガー・レイ・レナードとの3度目の対戦は、レナードの左右連打を浴びせられるなどして以前の豪快さは消え失せ12回10p・5p・10pの大差3ー0判定負けで終止符を討たれたのです。これで、レナードとの対戦は1勝2敗となりました。

◆異種格闘技の招聘で来日・・・

1992年4月19日、異種格闘技で戦う為に来日。プロレスラーで総合格闘家の船木 誠勝と対戦したが、2回に船木からボディブローでダウンを奪ったものの、3回に密着されてつかまり(腕固めのギブアップ)でアッサリと負けてしまったのでした。
当時、友人のビデオを借りて見たのですが、あの伝説的デュランが呆気なく負けたことへの不甲斐なさと、ボクシングを汚したという思いが少なからずあったのです。
しかし、再びボクシングに復帰して戦い続けます・・・

1998年8月28日、WBA世界ミドル級王者のウィリアム・ジョッピー(米国)に挑戦しますが、さすがに年の差19歳は無謀だったのか、3回途中棄権のTKO負けに終わってしまいます。この時、既に47歳となっていました。また、デュランの世界戦はこれが最後となったのです。

2001年7月14日、元3階級世界制覇王者で11歳も若いヘクター・カマチョ(プエルトリコ)と保持するマイナータイトルNBAスーパーミドル級王座の初防衛戦で12回判定負けを喫して無冠となってしまいます。この時、もう50歳を過ぎていたのです。これが、事実上の最後の試合となりました。

◆交通事故~そして、引退・・・

その後、交通事故で重傷を負ってしまい、結局、2002年7月21日、パナマシティーに於いて引退発表となったのでした。
もう、51歳となっていました。
しかし、事故に遭わなければ、世間の賛否両論があっても、まだ戦い続けていたのかも知れません。
さすがに、キャリア後期では年齢には勝てず、連勝したかと思うと連敗することもありました。
しかし、デュランはたとえ、負け試合であっても、次の試合では何かを見せてくれる期待感があったのです。
「超人」「怪物」「豪快」そして、「石の拳」と様々に形容され、そのすべてに当て嵌まる素晴らしい選手でありました。

【ロベルト・デュランの全戦績】
119戦103勝(70KO)16敗

【獲得タイトル】
第18代WBA世界ライト級王座(12度防衛=返上)
第7代WBC世界ライト級王座(返上)
第6代WBC世界ウェルター級王座(防衛=0)
第22代WBA世界Jミドル級王座(剥奪)
第21代WBC世界ミドル級王座(剥奪)
2006年・国際ボクシング名誉の殿堂博物館への殿堂入り。

ロベルト・デュラン役を演じるガエル・G・ベルナル
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世界王者シュガー・レイ・レナード役のアッシャー
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世界王者ケン・ブキャナン役のライアン・クワンテン
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デュランのマネージャー、カルロス・エレタ役を演じるアンディ・ガルシア
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フェリシダード・イグレシアス役のアナ・デ・アルマス
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重要なトレーナーのレイ・アーセル役を演じるデ・ニーロ
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★生涯トレーナー一筋60年のレイ・アーセルとは・・・

この映画の最も重要な人物がデュランのトレーナーだったレイ・アーセルとなるでしょう。
その昔、フロイド・パターソンホセ・トーレス(その後マイク・タイソンも育てる)といった名王者たちを育てたカス・ダマトと双璧をなすと言われていました。
ただ、名トレーナーと言っても陰で支える人物なために、あまりその人物像は表に出てこないものなのです。
少しだけ分かっていることを記しておきましょう。

レイ・アーセルは米国インディアナ州テレホートに1899年8月30日に誕生。
その後、家族ともどもニューヨーク市ハーレムに移り住み幼少期を過ごす。
そして、全米の高校でも名門と言われる地元のスタイベサント高校を優秀な成績で卒業すると、上の学校へ行くための勉学よりも、ボクシングに興味を持ったという。
ただし、自らボクシングをするのではなく、選手を育てることの願望に傾くのだった。
大学へは行かず、スポーツにかかわる仕事で身を立てる決心をしてニューヨーク市の名門スティルマン・ボクシングジムの門をたたくとトレーナーの修行を積んでいった。
本格的にセコンドに就くのを許されたのが23歳の時だった。
それから、2年後にのちに世界フライ級王者となるフランキー・ジェナーロ(NBA世界フライ級王座1928年~1931年)を担当するまでになっていった。

★レイ・アーセルの指導した名選手を一部を紹介!

レイ・アーセルは伸び悩んでいる選手や発展途上の選手を、だれも真似の出来ない練習方法で再生させ、名選手に育てあげることに情熱をもやした名伯楽に相応しいトレーナーだったと言われています。
そんなことから、「奇跡の先導者」とも呼ばれていました。

バーニー・ロス
中量級の3階級制覇王者で1938年5月31日、ウェルター級王座の防衛戦で、やはり前フェザー級の名王者で3階級制覇を目指してきたヘンリー・アームストロングと戦い、序盤はロスが優位だったが、中盤からアームストロングに連打を浴びせられレフェリーにストップをかけられたが、それを拒んで戦い続けて打たれ続けるも倒れず15回の終了ゴングを聞いた。ロスは結局、負けてしまったが耐えに耐えて倒れず最後まで諦めなかった試合は大歓声のやまない名勝負となった。

トニー・ゼール
1940年代のミドル級の名王者。
アマチュアで大活躍して鳴り物入りでプロデビューしたものの、3連敗を2度経験するなどなかなか芽が出ず振るわなかった為、一時期引退していたが、レイ・アーセルと出会って復帰すると、才能開花。1940年7月19日、王者アル・ホスタック(米国)に挑戦すると13回TKO勝ちで王座獲得。(1941年~1945年まで戦争の為、王座を保持したまま試合休止)
1946年~1948年にかけてのロッキー・グラジアーノとの3度の対戦は、倒し倒されの壮絶な打撃戦でミドル級史上で最も熾烈な戦いの名勝負に数えられています。
この戦いは、グラジアーノの半生を描いた1956年の大ヒット映画『傷だらけの栄光』でポール・ニューマン主演で忠実に描かれています。結果はトニー・ゼールが2勝1敗と勝ち越した。

イザード・チャールズ
1950年代のヘビー級王者。1954年の6月と9月の王者ロッキー・マルシアーノとの戦いはあまりにも有名。
チャールズの王座返り咲きを狙った1戦目は壮絶な打撃戦の末にチャールズが15回判定負けとなってしまいます。しかし、その敗戦はポイントでチャールズが上回っていたのではないかという疑惑が持ち上がったのでした。
そのために、再戦が組まれると中盤ロッキーの鼻をへし折りダウン寸前にまで追い込んだものの、倒しきれず、もう一歩というところで8回逆転KO負けで王座奪還ならず。この試合はファイト・オブ・ザ・イヤーと呼ばれた歴史に遺る名勝負だったのです。
1990年国際ボクシング名誉の殿堂博物館。殿堂入り。

ラリー・ホームズ
WBC・IBF世界ヘビー級王者。
名王者モハメド・アリ(米国)の引退後ヘビー級を牽引したが、アリの「コピーボクサー」などと揶揄されあまり人気はなかった。しかし、WBCを17度防衛しIBFを3度防衛した名王者であった。
ラリー・ホームズは1978年6月9日、WBC世界ヘビー級王者のケン・ノートン(米国)に挑戦して2ー1の僅差判定勝ちで王座を獲得。
しかし、ホームズは王座に就いたもののボクシングセンスだけで勝ってきたもので、このままでは短命王者で終わるだろうと指摘を受けていた。
そのために、1979年から1982年までの3年契約でレイ・アーセルがトレーナーを担当することとなった。
アーセルの指導で打たせないで打つ技術を進化させて連戦連勝を重ねていきます。
そして、1980年10月2日、カンバックしてきたモハメド・アリを10回終了のTKOで下して8度目の防衛に成功。
そのモハメド・アリは翌年12月11日トレバー・バービック(カナダ)に10回判定で敗れ、遂に引退となりました。
1982年6月11日、白人唯一のホープゲーリー・クーニー(米国)の挑戦を受けて13回TKO勝ちで下して12度目の防衛に成功。
アーセルは、この試合でホームズを勝利に導くと、これをもってサブ・トレーナーだったエディ・フッチに担当を委ねてトレーナー職を引退することとなります。
なんと、レイ・アーセルは83歳までトレーナーという陰で支える職業を全うしたのです。
トレーナー一筋60年で2,000試合のセコンド入りを達成して19人の世界王者を誕生させる偉業をなし遂げたのでした。
そして、名伯楽レイ・アーセルは、教え子のボクサー達に見守られながら1994年3月6日、老衰のために94歳で永眠となったのでした。
1991年国際ボクシング名誉の殿堂博物館。殿堂入り。

70歳過ぎた頃のレイ・アーセル本人の写真
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対レナード戦でデュランに喝を入れる80歳のアーセル

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