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ライター河内のひとりごと

今月号のモカは、胎内市が誇る『板額御前』です。

板額御前は、今から約800年ほど前、平安時代末期に弓の名手として知られている人物です。

 

 

三大御前として、巴御前、静御前、板額御前が知られています。三人とも、同じ時代を生きている人物ですね。

 

父親である、城助国(じょうすけくに)と兄資永(すけなが)が奥山荘(現胎内市周辺)を治めていた頃は、平氏の全盛期で、その頃の板額は何不自由なく生活をしていたと思われます。

 

板額御前 生誕の地 という石碑が、胎内市飯角地内に建てられています。

 

平家が壇ノ浦で破れると、源氏の勢いが大きくなってきます。源頼朝が鎌倉幕府をひらくと、源氏に寝返る平氏もいる中、城氏を継いだ長茂(ながもち)は、源氏には同調せず、捕らえられます。

兄が鎌倉に連れて行かれた後は、資永の子で、まだ幼い資盛(すけもり)の後見人として、板額が城一族をまとめていたのでは、ともいわれています。

 

長茂が鎌倉を離れ、京都で鎌倉幕府打倒の兵を挙げますが、討ち死にをします。

奥山荘の資盛が討伐されることになり、鳥坂山で共に兵を挙げたのが板額御前なのです。

 

 

何万もの鎌倉勢が攻めても、板額の放つ矢に城を落とすことができなかったといいます。

 

 

中央にある電波塔の右側にある峰を紫岩峰(しがんほう)といい、その峰に櫓を組んで戦っていたといわれています。

 

困り果てた鎌倉幕府は、佐々木盛綱の軍を送ります。その中に、山登りが得意な者がいて、後方の山に登って板額に矢を射りました。板額は両太ももを射抜かれて、ついに捕らえられました。

板額が捕らえられると、城軍は総崩れになったといいます。

 

鎌倉に連れて行かれた板額は、島流しを言い渡されますが、甲斐の浅利与一(あさりよいち)に見初められ、夫婦になりました。

現在の山梨県笛吹市にある館で、晩年は穏やかに暮らしていたようです。

 

その板額の活躍を伝えようというのが、板額会の皆様です。

2018年9月23日に、奥山荘歴史広場で、『板額の宴』というイベントが開かれます。

板額の活躍を演劇にして、わかりやすく知ってもらおうというイベントです。

 

 

 

 

 

 

 

興味のある方は、ぜひ、来て下さいね。

演劇だけではなく、板額太鼓やよさこい披露、飲食店ブースなどもありますので、そちらも楽しめますよ。

 

他にも、7月半ばに中条駅の新駅舎が完成し、そこにも板額御前が描かれています。

 

駅前には、板額御前の銅像もあります。今は穏やかな鳥坂山の様子を眺めていますよ。

 

中条町史にも、いくつかのいい伝えが記されており、人を惹きつける魅力のある女性だったのでしょうね。

知れば知るほど、板額の活躍が身近なものに感じられるはずです。難しいことは抜きにして、ちょっとだけ、板額の生き方に思いをはせてみてはいかがでしょうか?

 

私は個人的には、板額の兄である長茂の一本筋の通った波瀾万丈の生き方に興味があります。

では、また。