巻末資料、APPENDIX B は、

1893年、王位を追われたリリウオカラニが

クリーブランドアメリカ合衆国大統領の特任大使だった

ジェイムズ・H・ブラントに送った声明文の抜粋です。

 

本書では第38章(後編)に出てきます。

 

抜粋、と書かれていますが、非常に長い文章なので

何回かに分けて読んでいきます。

 

それと、これを書いていて気がついたのですが、

ジェイムズ・H・ブラントは結構な重要人物なのに、

なぜか彼についての説明を書いていなかったので

自分でもびっくりしました。ゲローあせるあせるあせる

 

後で彼についての訳注を書こう、と思って

すっかり忘れて次に行っちゃってました。

あとからまた、解説入れていきます〜〜〜滝汗

 

では、本題の、APPENDIX B の内容に入ります!

 

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APPENDIX B

 

女王によるブラント大使への声明(抜粋)

EXTRACTS FROM STATEMENT MADE BY THE QUEEN TO MINISTER BLOUNT.

 

重要な事実はそのまま残してあるものの、不要な重複を避けるためにこの声明の一部は省略されている。

本文章の内容には「ハワイの物語」に織り込み済みのものが多く含まれている。

 

 

ジェイムズ・H・ブラント閣下

 

1890年11月26日の朝、私はイオラニ宮殿へ出向き、そこでカラカウア国王陛下の閣僚であるJ・A・カミンズ、C・N・スペンサー、G・ブラウン、A・P・ピーターソン各氏と会い、陛下のお出ましを待ちました。

それほど待たされることなく書斎に通されると、国王は私をご自分の椅子に座らせ、そして正式に大臣たちを紹介してくれました。

互いに誠実であることを誓い合い、公務の遂行への忠誠を約束した後、大臣たちは退室。

国王と私は室内に残り様々な問題について話し合いました。

 

王は私に数ヶ月前に発覚した事件について話してくれました。

それは、閣僚たちの一部の人間が、汽船ワイマナロ号から銃や弾薬を海に投げ捨てたという話です。

王の命の保護と安全のために銃や弾薬を備えておくどころか、王がそれらを持てないようにするためになされたことです。

それは明らかに改革党(the Reform Party)の指示によるもので、一部閣僚たちはこの改革党に同調していました。

これらの大臣たちは1893年1月17日に私の政府の転覆に関与したのとまさに同じ連中なのです。

彼らは宣教師党もしくは改革党と呼ばれています。

 

国王はさらに、王の護衛が20名に減らされたことことにも言及しました。

万が一何かの動乱があった場合、彼らは十分に私を守ることができないだろう、と。

王は外務大臣カミンズ氏に、倉庫にある銃を全て宮殿に戻すように求めたのですが、馬車や車は宮殿に送られてきましたが銃そのものは隠されてしまったのです。

彼は自分の内閣から侮辱されたのです。

 

このことで王は自分の弱さを痛感しました。

自分の内閣が自分に逆らうということは、自分がもう何の力も影響力も持っていないということだと思ったのです。

彼がこれら全てを話してくれたのは、私が自分の置かれている状況をしっかり把握し、それに対処できるようにと願ったからです。

 

米艦チャールストン号での王の出発の時が近づき、彼は王妃と私に別れの挨拶をしました。その時私は心の中で、もしかしたらもう二度と彼に会えないのではないかという不安に襲われました。

 

 

 

 

1890年11月28日米国艦 USS チャールストン号に乗船したカラカウア国王

最期の旅となるサンフランシスコへの船旅で、

このあと翌年の1月に米国にて客死することとなる。

 

 

 

 

数日間を宮殿で過ごして、危険な状況をひしひしと感じました。

二日か三日に一度は何かの警報が鳴るのです。

何か起きているのではと不安になっているのに、それが何なのか誰にもわからない。

カミンズは陰謀めいた話を聞きつけたのですが、そのことを暴くことはできませんでした。

 

1890年の国会でホノルル ライフルズは解体されましたが、その団体のメンバーたちはなおも武器の携行や制服を着用することも許されていました。

 

 

 

 私は、夫のジョン・O・ドミニス卿に尋ねました。

どうしてこんなことが全て許されるのかと。

夫は外務大臣を私に差し向けました。

大臣に問い質すと、彼がいうには、彼らはピシアス騎士団(訳者注;友愛団体の一つ)のメンバーで、武器の携行を許されているとのこと。

これは到底満足できるものではなく、夫と私はどこかで何らかの陰謀が行われているに違いないという結論に達しました。

それ以後、私はワシントン・プレイスにいる方が良いと思い、公務の時間のみ宮殿に行くようにしました。

 

数週間が過ぎて、帰国の国王を歓迎するための盛大な歓迎の準備が整いました。

ところが1891年の1月29日、米国艦チャールストン号がハワイ国旗を半旗に掲揚した状態で姿を現したという驚愕の知らせに、ホノルル市街は震撼したのでした。

 

 

1891年1月29日ホノルル港に到着したカラカウア王の棺

 

後方にいる船がチャールストン号で

ハワイ王国旗とみられる旗が弔意を示す半旗

(半分の高さに掲揚)の状態であるのが見える。

 

 

〜〜 その2に続く〜〜