訳注:① 武装集団 ホノルル・ライフルズ

 

ホノルル・ライフルズ

(もしくはハワイアン連盟(Hawaiian League))

の事を指していると思われます。

 

ホノルル・ライフルズは1884年の春に結成された、

白人市民による自警団です。

国王や内閣から承認を受けており、命名したのもカラカウア王です。

 

ハワイ王国で正式に軍隊というものが定められたのは、

1886年10月の国会決議だそうです。

それ以前は大掛かりな軍隊はなかったようで、

国王や王妃、王子の護衛組織(近衛隊)など5つの自警団がありました。

それらはどれもハワイ人もしくはハワイ系の血筋の人間で組織されていました。

 

ホノルルライフルズは、ハワイで生まれた初めての、

ハオレ(白人)の軍事組織でした。

1885年、エマ女王が亡くなった際には、

女王の家を警備する任務を与えられ、これを遂行しています。

 

 

この年、カナダからハワイにやってきたヴォルニー・アシュフォードが

ライフルズに加入します。

 

アシュフォードは、

弟のクラランスが開業していたホノルルの法律事務所のパートナーとなりますが、

彼の才能は法務よりも軍事に秀でていたようです。

南北戦争始めとしてアメリカで様々な軍務経験を積んでた彼は、

南北戦争後にカナダ軍に入隊し部隊長の地位にまで上がります。

そのキャリアを生かし、

彼はホノルルライフルズの軍事教練で才覚を振るい、

ホノルルライフルズは非常に熟練した精鋭部隊に進化します。

 

カラカウア王50歳の誕生記念祝賀会で行われた軍事教練コンテストでは、

見事に優勝を果たし、

ホノルル市街の警備を担う存在として認められるようになりました。

1887年1月、当局からの要請により、ホノルルライフルズは

王国の軍事力を担うボランティアの軍事集団(民兵組織)の1つに加えられました。

 

 

1887年3月には軍事演習(ドリル)を

国王や政府・議会、各国代表のお歴々など大勢の前で披露、

カラカウア王はライフルズに見事なハワイ国旗を贈呈して賞賛しています。

 

この頃人数は100名を越しており、二つの部隊に編成されました。

さらに5月にはポルトガル人入植者たちによる部隊も加わり、

3つの分隊となり、アシュフォードはその司令官となっています。

隊員数は200名近くになっていました。

 

その間にも、ハワイの市民たちの間の不穏な空気はどんどん広がっていました。

国王や政府に対する白人勢力の不満、

また先住ハワイ人と白人社会の軋轢も増大しています。

そんな中でカラカウア王の暗殺という話も出てきたのですが、

その発案者は、ロリン・サーストンの証言によれば、

このアシュフォードだったそうです。

 

暗殺計画は、ハワイアン連盟の幹部たちの

特に穏健派によって却下されましたが、

ホノルルライフルズやハワイアン連盟に加入する人が増えるに従って、

白人たちのムードはどんどん過激になっていったそうです。

 

そして、7月1日の銃剣憲法へと向かっていくのですが。。。

 

 

 

まぁ、なんというか・・・

今のアメリカの分断状況とか、、、

日本国内でも、右翼とか、新右翼とか、反韓とか、、、

韓国の大統領や政治家の言動とか、、、

英国のプレグジットやミャンマーのロヒンギャ問題とか

 

今まさにこの私たちの世界でも起きている、

いろんなことを考えて、

当時のハワイのことを思えば、、、

 

相手の立場とか自分と違う人たちのことを一切考えようとせずに

自分の主張だけ声高にする、

それがどんどんエスカレートしていく

そういうのって、なんか・・・

今のこの世界でも一緒ですよね。

過激な方が勢いがあると、どんどんそっちいっちゃう感じ。

第二次大戦前夜の日本の陸軍とかもそうだったんだろうな

人間のすること、気持ちって、そう変わらないんだな

自分自身でもそんな風になっちゃってること、ありますしね。

 

 

そういったことを想像すると、なんとなくこの時期のハワイの

不穏な、不安な、危険な空気が想像できるのではないかと・・・

 

宣教師党(そしてハワイアン連盟)内部の良識ある穏健派の力で、

新憲法制定後もしばらくはカラカウア王の時代は続きます。

 

が、国王の権限は著しく低下し、

政治は議会で進められるようになっていきます。

 

 

カラカウアはその変化の中で、何を想い、どう感じていたのでしょうか。

日記や手記などが残っているなら、読んでみたいです。。。

 

カラカウアがこの世をさるのは、この4年後、1891年の1月のことです。