訳注:⑤ プレンダーガスト

 

ファーストネームの、

イニシャルさえも書かれていないプレンダーガストさんですが、

多分、John Kapamawaho Prendergast

 が正式なお名前だと思います。

 

彼は1893年の革命に抗議するハワイ人団体

Hui Aloha Ainaのオアフ島支部のメンバーで、

前記事のジョセフ・ナーヴァヒーとともに

ハワイ人のためのハワイを求めて頑張ってた人です。

 

John Kapamawahoa Prendergast

 

 

彼についての詳しい話については、

今のところ私には見つけることができていません。

 

乏しい情報の中で、1890年代に

Nupepa Ka Oiaio(「真実新聞」)という週刊のハワイ語新聞を

ジョン・E・ブッシュとともに刊行していたようだ、

というところをつかんだくらいです。

 

この人の場合、ご本人よりは

奥様についての情報の方が多く伝わっています。

 

 

奥様のエレン・ケコアオヒヴァイカラニ・プレンダーガスト夫人

(二人は1894年に結婚)は、

1865年ホノルルで生まれました。

 

聖心修道会でカソリックの教育を受け、

独身時代からリリウオカラニの侍女として近しく使え、

リリウオカラニからとても信頼されていました。

 

彼女は音楽の才能が豊かで(ギターが有名だったらしい)

ハク・メレ(ソングライター)として知られていました。

彼女の作品の中でも、最も有名な歌が、

「Kaulana Na Pua」というプロテストソングです。

 

 この曲が作られたのは、1893年1月のこと。

 

1893年1月、リリウオカラニ女王が新憲法公布を意図していると知った白人たちは

アメリカ公使スティーブンスとともに

アメリカ海軍をホノルルに上陸させ王国政府庁舎を占拠、

戒厳令を敷き革命臨時政府の樹立を宣言。

 

軍事衝突を危惧した女王はこれに抗議するも、

緊迫した事態を収めるため、

自ら主権者としの権限を放棄する道を選びました。

 

このあたりの経緯は、Wikipediaの「ハワイ併合」の項の、

特に「ハワイ事変(ハワイ革命)」を読むと(日本語です)

概略がわかると思いますので是非ご一読を。

 

 

革命臨時政府は全権を掌握すると、

ハワイ王国の公務員や政府の職員に対して、

革命政府への忠誠を誓う署名を求めました。

 

ロイヤルハワイアンバンドのメンバーも

この署名を求められました。

 

リリウオカラニ女王に対して強い忠誠心を抱いていた彼らは

臨時革命政府からのこの命令を拒否。

「ハオレの書類に署名はしない、

 それよりも、自分たちはハワイ人に残されたこの大地の石を喜んで食べよう」

と心を決め、エレンの住む家(カパーラマにありました)へ皆で出向き、

自分たちの抵抗の証となるような歌を作ってくれと頼みました。

 

この曲の歌詞には

彼らの決意がそのまま反映されています。

 

以下、抜粋と、拙い訳ですがつけてみました。

 

3)

ʻAʻole ‘aʻe kau i ka pūlima        署名はしないぞ

Maluna o ka pepa o ka ʻenemi    敵の書類には

Hoʻohui ʻāina kū ai hewa           祖国を売り渡すのは間違ったことだ

I ka pono sivila aʻo ke kanaka   国民の権利を売ることも

 

4)

ʻAʻole mākou aʻe minamina     我々はなびいたりしない

I ka puʻu kālā a ke aupuni          政府が金を山のように積んでも

Ua lawa mākou i ka pōhaku,    我々には石で十分だ

I Ka ’ai kamahaʻo o ka ‘āina    大地の素晴らしき食物だ

 

5)

Mohope makou o Lili’u-lani.   我々はリリウオカラニを後ろで支え

A loa’a ē ka pono a ka ‘āina    この土地の正義を取り戻す

(A kau houʻia e ke kalaunu)    (再び玉座に据えよう)

Haʻina ʻia mai ana ka puana    語り伝えよう

Ka poʻe i aloha ika ʻāina        この土地を愛する人々のことを

 

 

 もうそのまんまですが、

隠された意味がハワイの人にだけ伝わるような仕組み

(カオナという、裏の意味)もたくさんあるそうです。

 

一年後の1894年2月、

臨時政府に従わず楽団をやめた団員たちの

忠誠心を讃える記念の集会でこの歌は歌われました。

 

さらに同年の10月、以前ブログで書いた ウルハイマラマ庭園

(この名前には、

 「真っ暗な土の中から植物は太陽の光に向かって育つ。

  ハワイの人々もそうなるように」

 という意味が込められているそうです。)

の開園記念のセレモニーでも歌われました。

 

当時、臨時政府は戒厳令を敷いて

ハワイ人たちが集会を開くことを禁じ、

おかしな動きはないか常に警戒していました。

 

この日、庭園に集まった人々は、

小さな盛り土の上に、何の変哲も無い一枚の石を置きました。

そしてその石の置かれた土を皆で

手で優しくパタパタと叩きながら、

そっと、この歌を歌ったということです。

 

その情景、想像すると胸に迫るものがあります。

 

 

1895年、「カウラナ・ナー・プア」の歌詞は、

ハワイの詩と歌の名曲集「Buke Mele Lahui」

という本に収められた104曲の中の一つとして、

様々な新聞で紹介されました。

 

エレンが作曲したメロディは譜面になることなく、

そのためにいくつかの異なるメロディーのバージョンがあったようですが、

元曲のメロディーは結局失われてしまいました。

 

その後1950年代、第二次大戦後に、

この歌を蘇らせたいと願ったエレンの娘たちの尽力に

当時の音楽家やハワイの長老たちが応え、

次のような歌になりました。

 

 

 

 

 

「カウラナ・ナー・プア」(名高き花たち)は

ハワイの人々にとって大切な歌となり、

今でも大切に歌い継がれています。

 

詳しい話はこちら 👇 の論文をどうか読んでいただくとして、

( "Kaulana Nā Pua" :  A Voice for Sovereignty

Eleanor C. Nordyke & Martha H. Noyes )

https://evols.library.manoa.hawaii.edu/server/api/core/bitstreams/19dfebf9-a234-4e3b-b9e2-0b29a7532294/content

(非常に心を打たれる内容です)

 

ここではエレン・プレンダーガストのその後を少し。

 

1894年、ジョン・K・プレンダーガストと結婚したエレンは、

二人の娘と息子一人を授かります。

が、ハワイが合衆国に併合された後、

1902年12月5日、短い一生を終えました。

 

Ellen (Elenor) Kekoahiwaikalani Wrigt Prendergast

 

 

彼女の人生は37年という短いものでしたが、

彼女の歌は120年以上経った今でもハワイの人々の

Mele Aloha Aina(国を愛する歌)となって生き続けています。