このブログを開設したのは、

3年前の9月でした。

 

9月はリリウオカラニ女王の誕生月で、

だから毎年9月になると

ブログを始めてもうこんなに経つのか〜と思うと同時に、

リリウオカラニ女王にまつわるエピソードを

歴史の中から拾い上げたくなるのです。

 

今年は、誕生日にはちょっと遅れてしまいましたが

(女王の誕生日は9月2日です)

先月、第36章の訳注でちょっと出てきた、

ウルハイマラマについて書いておこうと思います。

 

ホノルル市の郊外、パンチボウルの丘の山側の

パウオアと呼ばれる地区に

リリウオカラニ女王が所有する庭園がありました。

 

1893年に始まる政変で、リリウオカラニは投獄され

イオラニ宮殿で禁固刑となります。

ハワイは戒厳令下に置かれ、女王は王位を剥奪。

ハワイ人たちはこのような革命を何も望んではいませんでした。

 

女王を守りたい、女王をなんとか救いたい。

そう願い、立ち上がったハワイ人たちの一人、

女王の友人で、政府高官ホワイティングのかつての妻だった

リジー・ナカネアロハ・マナは、

1894年10月の初めに、

このような新聞広告を出しました。

 

オイアイオ紙、1894年10月5日付

 

 

「花を育てたい人、全員集合!

 今度の木曜日、10月11日、

 パウオアのウルハイマラマのマウカ(山側)です。

 朝9時、花の苗の植え付けを始めましょう。」

 

・・・って感じのことが書いてある。

この記事の最後、ナカネアロハ・マナ という名前の下に、

「庭園管理者」と書かれています。

ハワイ語で書かれているということは

白人にはわかりづらいようにということでしょうか?

(とはいえ、ロリン・サーストンのようにハワイで生まれ育ってハワイ語に堪能な

 革命政府の中心人物もいたのですが)

 

さらにこの3日後の、デイリー・ブリテン紙に、

以下のような記事が掲載されました。

 

 

「パウオアに女王が数エイカーの土地を所有しており、

 ここに慈善目的のナーサリー(育苗農場の意味か?)を作るつもりだった。

 この土地が約75の区画に分けられ、それぞれ、

 女性愛国連盟のメンバーが担当することになった。

 この庭は「ウルハイマラマ園芸(ナーサリー)」と命名され、

 木曜日朝9時に正式に発足することとなった。

 各花壇の担当はそれぞれが自分の花を植え、

 独自にそれぞれの木や花を育てるという。」

 

とまあ、これだけ読むと、

お花咲かせ隊、というか、

善良なる花好き市民の緑化運動的な?

活動のようにしか読めませんよね。

 

でもこのお花育て活動には、大きな意味があったのでした。

 

この当時、戒厳令的な状態にあったホノルルで、

ハワイ人は政治的な目的で集まったり会合を持ったりすることが

できなかったそうです。

 

リリウオカラニ女王がお花が大好きなことは

ハワイの人ならよく知っていた。

(というか、ハワイの人はもれなくお花大好きですよね)

 

それで、この土地に女王の好きな花を植え、育てることにした。

花の世話に集まった人たちが

花の話をしているだけ、ってテイで集まって。

だけど、花の世話をしながら、

ハワイの女王を支え、ハワイ人が一つにまとまるために、力を合わせよう。

という暗黙の意思を、皆が共有していたようです。

 

ククイ(灯、叡智の意味がある)、ピリ(連帯の意味がある)ラウハラ、コアなどなど、

多くのハワイの伝統的な植物が植えられました。

その中に、女王が大好きだったという、

紫色のクラウン・フラワーもありました。

「紫色」はハワイ語で ポニ(poni)と言うんですけど、

ポニには、「戴冠」「王冠」と言う意味もあります。

これもひとつのカオナ(隠されたもう一つの意味)かな?

 

紫のクラウンフラワー。

向きがどうしても横になっちゃってスンマセン。

 

 

 

そうして、ここで育てられた花々は、

毎朝、イオラニ宮殿に幽閉中の女王に、

「新聞に包まれて」届けられました。

外部との接触を禁じられていた女王に、

日々のハワイでの出来事が少しでも伝えられるように、

との思いからだったそうです。

 

女王はどれくらいこの花と包み紙に励まされたことでしょう。

女性なら誰でも花を贈られると嬉しいですが、

花を愛する女王、そして、人と接することを禁じられた女王なら

なおさら、花とそこに込められた国民の思いの

美しさ、愛らしさ、香りがしみた事でしょう。

 

 

その後ハワイはアメリカに併合され、

庭園の土地もアメリカ政府に没収されて

解体され、いくつかの墓地として売られてしまいました。

 

その一つが、中国人墓地となっているのですが、

あれ?と思ったんです。

マキキの奥の、中国人墓地・・・?

 

なんか、エディ・アイカウの物語・・・?

 

そう、ハワイの悲劇のヒーロー、伝説的ライフガードの

エディ・アイカウが、子供時代を過ごし育った

中国人共同墓地が、

このウルハイマラマの一角でした。びっくり

 

(エディ・アイカウ知らない人はこちらをどうぞ エディ・アイカウの歴史

 

 

 

 

エディは、知ってたんかなぁ?

自分の育った家がかつては女王の庭だったと言う事。

 

 

  虹 虹 虹

 

2009年10月11日。

ウルハイマラマが生まれたまさにその日からちょうど115年後の

ホノルル・スターブリテンの記事があります。

 

「よみがえる女王のウルハイマラマ庭園」と題されたその記事で、

有名なフラ教室ハーラウ・イカベキウの二人のクム(フラの師匠)と

多くのサポーターたちが

この庭園を蘇らせる活動を始めた。という話が紹介されました。

 

イカベキウのレッスン場所は

ウルハイマラマのすぐそばなんですね。キラキラ

 

 

 

 

2014年、今から5年前ですが、

ウルハイマラマ誕生の120周年記念のイベントの様子です。

 

感動的です。

数々の歌も、フラも、スピーチも。

 

歴史を語り継ぐのに、

怒りや憎しみではなく

愛情と敬愛と思慕を

歌と踊りと花で伝えるという

美しい形をハワイの人は持っているのだなぁ

としみじみ思います。

 

 

ちなみに、

1895年時点でも、

このウルハイマラマとリリウオカラニ女王のために

二曲の歌が作られていて、

 

そのうちの一つ、

Ke Kuni Lanakila という曲は、

こんな曲です。

 

 

 

長い雑談にお付き合いいただき、ありがとうございます。

 

暑さにやられて、読みたい資料も頭に入って来ず、

更新が途切れ途切れになりがちですが、

リリウの語るハワイの話も、いよいよ後半に入り、

緊迫してきます。

この先も何卒お付き合いくださいますよう。

 

 

A hui hou!