哲学総論 つれづれ 51  | コリンヤーガーの哲学の別荘

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30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 久々のヘーゲルです。

 

 引用

 

 〔口頭説明2〕 (分析的・抽象的な命題たる) 排中律にしたがうぐらいなら、むしろ「すべては対立している」というほうがよい。実際、天にも地にも、精神界にも自然界にも、分析的知性の主張するような、「あれか、これか」は存在しません。あるといえるすべてのものは具体的なものであって、当然にも、内部に区別や対立をかかえています。物が有限なのは、そのありのままの存在が本来の存在と一致しないからです。たとえば、無機自然において、酸は本来は同時に塩基であって、酸の存在は塩基という他者と関係することにしかない。だから、酸は対立のうちにじっととどまっいめわけにはいかず。自分の本来のすがたを実現しようと努力します。一般に世界を動かすのはのが矛盾であって、矛盾は思考の対象にはならない、などというのは笑止のいい草です。その主張に正しいところがあるとすれば、矛盾は矛盾のままにとどめてはおげず、矛盾は自分で自分を克服するものだ、という点だけです。が、矛盾の克服は抽象的な同一性の回復ではない。抽象的な同一性は対立の一側面をなすににすぎないのですから。矛盾として設定された対立の次に来るのは「根拠」です。「根拠」は同一性をもちがいをも、克服され、単なる理念的な要素へ格下げられたものとして、内にふくみます。

 

『論理学』 ヘーゲル 著  長谷川 宏 訳  作品社 272~273頁

 

 解釈の試み①

 

 〔口頭説明2〕 (分析的・抽象的な命題たる) 排中律にしたがうぐらいなら、むしろ「すべては対立している」というほうがよい。実際、天にも地にも、精神界にも自然界にも、分析的知性の主張するような、「あれか、これか」は存在しません。あるといえるすべてのものは具体的なもの (存在が空想的な観念ではなくて、人間の感覚や知性で捉えられる限りで実在的な具体性を持つ「もの」) であって、当然にも、内部に区別や対立をかかえています。物が有限なのは、そのありのままの存在が本来の存在と一致しないからです。たとえば、無機自然において、酸は本来は同時に塩基であって、酸の存在は塩基という他者と関係することにしかない。 (同じ組成の物質であっても「水」に溶解した時の水素イオン指数がPH7以上か以下で、酸性かアルカリ性かに区分されるが、物質そのものの組成を変化させることなく、その物質にひとつの性格を付与するに過ぎない。)だから、酸は対立のうちにじっととどまっいめわけにはいかず。自分の本来のすがたを実現しようと努力します。一般に世界を動かすのはのが矛盾であって、矛盾は思考の対象にはならない、などというのは笑止のいい草です。その主張に正しいところがあるとすれば、矛盾は矛盾のままにとどめてはおげず、矛盾は自分で自分を克服するものだ、という点だけです。

 

 「太陽がない」、は存在論としては誤りで。

 太陽は見え「ない」が正しい。

 

 太陽が存在しない=「見えない」は、現実の夜の人間にとってはその時の感覚の「真実」だが、地球の裏側では「見える」ので、太陽がないは「ない」のである。(パルメニデスの「ないはない」)

 

 引用

 

 かくて、第1篇を通して、

  a  質

   単なる質       存在 ⇔ 無 → 生成

   生成           生成 ⇔  統一 → そこにあるもの

   そこにあるもの    そこにあるもの ⇔ 他なる存在 →自分と向き合う存在

   自分と向き合う存在  一なるもの ⇔ 多くの一 →量

  b 量

   単なる量       非連続量 ⇔ 連続量 → 一定量

   一定量        数  ⇔  単位 → 度合い

   度合い        内包量(度合い) ⇔ 外延量(一定量) → 無限過程

                比  ⇔   値    

                自分と向き合う存在 ⇔ 存在にかかわらぬ量 → 限度量

   c    限度量       一定量  ⇔  一性質をもつ「そこにあるもの」  → 統一

                 質  ⇔  量  →  無限過程  

                 (自分の相手のなかで自分自身と一体化するという、真なる無限の過程)

 

     

     こうして、「存在」は「本質」に移行する。(第1篇の叙述の完了)

 

 当ブログ「哲学総論 つれづれ35」 より

 

 第1篇の存在と無、「ある」と「ない」の設定から始まって、質と量の過程から導き出された「本質」を経て、第2編で、「陽」と「陰」という同一性の内包する対立が描かれてきたが。

 

 単純に、

 太陽がない、は存在の否定で

 太陽は見えないがある、は存在の否定の否定である。

 

 この否定の否定は、陽と陰、昼と夜の対立が、あるとないの単純な対立ではない契機として同一性「ある」を支えるということである。 

 

 ヘーゲルの記述に戻って、解釈の試み①のつづき

 

が、矛盾の克服は抽象的な同一性の回復ではない。抽象的な同一性は対立の一側面をなすににすぎないのですから。 (太陽はひとつとして存在する。だからその) 矛盾として設定された対立の次に来るのは「根拠」です。 (太陽に陽と陰があるのは「地球の自転」という) 「根拠」は同一性をもちがいをも、克服され、単なる理念的な要素へ格下げ (太陽の見え隠れを単に「昼」と「夜」の対立として描かれていた『創世記』の「光」と「闇」の二元論が地球の自転を認識することで、一元論としての単一な太陽を回復する。)られたものとして、内にふくみます。

 

 解釈の試み① 終わり 赤字はわたしの補筆

 

 引用

 

 § 120

 

 陽とは自分とむきあうとともに、自分の相手とも無関心ではいられないような、そういう区別されたものである。陰もまた、自立し、自分と否定的に関係し、自分とむきあう存在であって、同時に、陰であることからして、自分との関係という肯定的な側面は他者のうちにしかもたないものである。だから、陽も陰も矛盾のうちにあり、本来は同じものである。どちらも他者とと自分自身を克服していくかぎりで、同じものであることを自覚している。こうして、陽と陰は「根拠」へとむかう。

 

『前掲』 273頁

 

 解釈の試み②

 

 陽とは自分とむきあうとともに、自分の相手とも無関心ではいられないような、そういう区別されたものである。陰もまた、(闇として)自立し、(本来光の源としての)自分と否定的に関係し、自分とむきあう存在であって、同時に、陰であることからして、自分との関係という肯定的な側面は (自転する地球に存在する生命という)他者のうちにしかもたないもの (太陽自身に関係ない地球上の存在の感覚と認識)である。だから、陽も陰も矛盾のうちにあり、本来は同じものである。どちらも他者とと自分自身を克服していくかぎりで、同じものであることを自覚している。こうして、陽と陰は「根拠」へとむかう。

 

 およそこの世界に存在するものは「ある」である。

 

 二重の意味での「同一性」の弁証法

 

 ニホンオオカミは絶滅したので「ない」という「今」は、それでも現在生存しているイヌの一部にはニホンオオカミの遺伝子を受け継ぐものとして「今」今日的に「ある」というべきであり、恐竜は絶滅したので「ない」「今」でも、6千万年前地下深く埋められた恐竜の脂肪を、今日人間が掘り返して、「原油」として人間の発明した「動力」燃料として使われ、あるいは地球環境の破壊の原因ともなっている。

 絶滅とは「非存在」とは同義ではないのです。

 

 余談

 

 コロナウィルスもまた。過去にわたしたちの遺伝子の原理を持ち、38億年の間に、枝葉の分かれた生態系の「敗者」として、「日陰者」として細々と生きながら、細胞を持つ多種の体内に寄生することを求めて、「勝者」への変質を伺っていた一種の「生命」存在として今日「ある」のです。

 

 余談終わり。

 

 この場合、自然科学とか歴史学とか地質学を経由する人間の「思考の対象判断」の理性的弁証法をいっている。つまりヘーゲルが『大論理学』に与えた副題「意識の対象の学」として、対象の本質を浮き彫りにする「客観」的態度のように描いているのだが、それを具体的な「恐竜」などの対象の知識に関するものとしてではなく、この具体性を「存在」一般に還元する思考そのもの弁証法を述べている。その際本質に迫るには、対象が「現象」する仕方において、生物としての「恐竜」、石油の原料としての「恐竜の脂肪」という七変化を捨象して、過去存在一般を現在の「非存在」として思考しない回路を得る。(科学は過去を過去としてしか扱わない。)

 

 またこの思考そのもの弁証法は、思考の「対象」を現実の存在に限定しない。思考の対象は人間の想像上の「存在」にも及ぶ。

 

 神は「ない」

 しかし想像上の存在としては「神」は「ある」。

 

 神の存在を否定する人であっても、神は「ある」という主張をする人の思考に「想像上であっても」神が存在していて、神を「思い浮かべている」まさにその「存在」を消滅させることはできない。

 

 縄文時代の、動物の象徴とも人間の象徴とも取れる「土偶」が、美術として生み出される背後に、「人間は観念上の存在」を「具象化」してみせる「思考」がある。いつしか、観念上に現れる「仮定」として、「もし地球が自転していると仮定」してみせる想像力もまた、この人間の「思考」の賜物である。よって「空想」は簡単に否定されるものではない、 

 

 陽と陰

 

 二重の意味での「同一性」の弁証法を理解するのが困難なのは、「あるはある」に込められる人間の想像力の偉大さを前提としながらも、理性の獲得のために「ある」と「ない」を、「陽」と「陰」に転化する飛躍に求めるヘーゲルの「自己と否定的に関係する同一性」という抽象論が理解困難な領域を語っているからである。

 

 わたしが「太陽」を比喩的に用いて、この部分を語ったことは、誤解を生じやすい。

 ヘーゲルの記述は、思考の従うべき規則としての論理学を目指すものであって、「地球の自転」という認識の科学的な到達点をいっているのではなく、そのように思考する方法の獲得過程として、「ないはない」というパルメニデス的原初の存在論の貧困を克服するためには、「あるはある」がその存在の仕方は、「同一性と区別」の矛盾を克服する必要性をいっているのです。

 

 つづく