自然哲学試論 (2017年改訂版) 序論 その1 | コリンヤーガーの哲学の別荘

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30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

§1 自然とは何か

 

 自然とは何か。自然科学とか自然哲学と言うことを語るときに、この最初の根源的な問いへの回答を、それがわたしの個人的な見解と見られてでも、まず明らかにしておかねばなりません。それが本稿を読み進めるための指針、前提となるからです。

 以前、わたしは「自然」という語の言語上の意味についての考察を試み、『認識論試論』(言語哲学試論3)で次のように述べました。

 

 引用

 

 英語で「自然」は、nature で名詞(noun)、形容詞(adjective)は、natural 副詞(adverb)は、naturally ですが、naturalには、「自然な」という意味ではなくて「当然に」という使い方がある。

 It  is  natural  for  parents  to  love  their  children. 
  訳 親が自分の子どもをかわいがるのは当然です。

 自然を当然という意味に使うということです。

 日本語で、「その子は自然に仕事を覚えました。」という言い回しがあります。
 このとき「自然」は山や川や動物を指す「自然」とは直接関係ないように思えます。ここでは「その子は一人で仕事を覚えた」ぐらいの意味です。しかし「一人で」というのは「誰の手も煩わせずに」ということです。つまり「自然」の定義として、「人の手のはいっていない手付かずの自然」というのがあって、「人の手のはいっていない」という意味を「他人の手を煩わせずに」という風に「自然に」という副詞を使いまわしているということなのです。

 英語でも

 a  natural  way  of  speaking
  訳 自然な話し方

 この場合は「話し方」を修飾するのに「自然な」としているが、これも、「気取っていない」「素直な」という意味で「変に手の込んでない」で「手の入っていない自然」を使いまわしています。

 実は日本において明治以前の話し言葉で、「自然」などという単語はほとんど使われておらず、知っている人は相当のインテリでした。おそらく「野山」を駆ける、というように話されていたのであって、明治政府=文部省が、英語のnatureに「訳語」を与えるとき、音読み(中国発音)の熟語が必要になった。そのときnaturalに「自然な」以外に「当然な」「素朴な」「普通な」という意味があり、老荘思想にある「無為自然」(意味は「大自然」というより「自然態」でどちらかと言うと「素朴に」「無理に自分を作らずありのままに」というニュアンス)から借りてきた、というところではないのかとわたしは考えています。

 

 『言語哲学試論3』 当ブログ「認識論試論 1」 2016.11.26より

 一部改

 

 ここで定義している「人の手のはいっていない手付かずの自然」 というのは、条件付定義であって、自然一般を定義しているわけではない。人間社会にあって「自然」なる言葉が言語上(会話上)どのような意味として使用されるかを述べているに過ぎない。いわば、意思疎通として会話が成立している時の、主観Aと主観Bとの間で共有される認識の媒介としての単語「自然」の意味を言っているに過ぎないのです。よって主観それぞれの認識は現象論として「自然」に対する思考内容(認識)を示すのです。

 そうではなくて自然一般、つまり思考を前提しない存在論として自然を定義するなららば、

 

 自然とは、この世界にあらかじめ存在するものすべて

 

と言うことになる。

 

 ここで「あらかじめ」と言っているのは、人間の存在以前に、と言うことです。

 もし、「あらかじめ」ということを前提としないのであれば、つまり人間の存在を含ませてしまうと、その「世界」には、①「神」とか「精霊」とかの言葉で呼ばれる人間の想像上の存在や、②「悲しい」とか「痛い」などの人間の感性が捉える実体のない感情の存在さえも「世界」に含むということになる。

 実体とは人間の認識や感覚を前提せずに存在しているものという意味です。ただしこの時「実体」と言うものをわたしたちが具体的な例として理解しようとすると、手で持てる「形」や、視覚的に「見える」物を想定しがちです。そうではなくて、形や可視的でないが人間の認識や感覚を前提しない存在としての「光」や「万有引力」も含まれる。確かにわたしたちは「りんごが木から落ちる」のを見て万有引力を理解するが、りんごの動きは万有引力の「結果」なのであって、万有引力「そのもの」ではない。

 

 自然と言う時、こういう意味で

 

 「自然とは、この世界にあらかじめ存在するものすべて、」

 

 というもっとも抽象的な定義を与えることができ、その抽象性のわかりにくさを

 

 「人の手のはいっていない手付かずの自然」

 

 という言語上の意味をもって補完することによって、抽象的だが共有されうる「何か」を予感するものになる。

 

 ただし、人間という存在を前提としないと言っても、人間もまた自然の所産としてあるから、人間を自然に含めないのは誤りであるという考え方が提起されるでしょう。

 

図1

 

 それに対するわたしの回答は、図1に示しているように、人間が人為的に「対象的自然」を加工する存在である点では、人間は「単なる自然」ではなく、「精神」をもった存在であり、対象的自然が常に受動的な「加工、創造」される側に対して、人間の精神は「加工、創造」する能動態としてあります。この点人間はすでに「人の手の入った」存在であるし、その人間の作り出す「物」は「人の手のはいったもの」と言えます。

 

 このようなものは自然の定義からは区別されるべきです。

 

 ただし、人間が「道具」を持たず「言語」を持たず、猿同等に、自然を加工することなく木の実を食べ、川の水を飲む非生産的な存在としてある、あるいはあった時代においては、人間も自然の一部としての存在であったと言うべきです。

 

 この意味で、自然の定義としては

 

 「精神から区別された存在」

 

 という意味としてもあります。

 

 よって、自然哲学の前提として共有されるべき、自然の定義は

 

 自然とは、

 

 ① 「世界にあらかじめ存在するものすべて」だが条件として

 ② 「人の手のはいっていない手付かずの自然」で

 ③ 「精神から区別された存在」

 

 と言うことができます。

 

つづく