湖畔の宿。遂に 出ました。BS日本 R先生の 歌唱。9月7日。

ある風景が 蘇ります。

 風のない 暖かい春の日 小学校の校庭 舞台のうえでは アイヌの方たちが

踊りを 披露してくれています。時は昭和30年に入っています。渋谷駅近くの桜が丘です。

 遠くに 東横デパートが 光っています。 小学校は高台にありまだ 邪魔する建物も有りませんでした。

私は小学5年生、歩いて通っていました。

今は 校舎もなく 小学校の後地に さくらホールが有ります。

 

 学校が終わり 帰宅すると 近くに来るよう呼ばれました。何やら 慌ただしい様子、さて。

招かれて 私と弟が部屋に入ります。

と そこに めったに会えないしかも 素の大女優がいるではありませんか。

 サングラスのその人は 高峰三枝子さんでした

 

「こっちが お兄ちゃんなのね」

高峰さんが 話しかけてくれた 一瞬でした。

 

ここから 高峰さんの芸能活動が 身近かに感じられるようになります。

子供ながら 『湖畔の宿』 を 耳にします。話は 服部百音ちゃんまで 続きます。

澁谷からお茶の水を 経由して新宿若松町に至り、服部良一さんの 隣に住むこととなりました。

 澁谷は 高峰さんの家で、隣は後に総理大臣をされた 岸さんでした。

高峰さんの 家の前、道を挟んで反対側に三木さんの家が 有るのは後に 知りました。三木さんの家だけは現在も有ります。

岸さんの隣 高峰さんの家に住み その後が 若松町の服部良一さんの 隣の家でした。

何故 高峰さんの家や 服部さんの 隣家の住まいに縁があるのかは 親の仕事の関係でした。大事な

仕事を していたようです。

 服部良一さんの 家で思い出すのは 確か還暦の 祝いを自宅でされていました。

夕方から芸能人さん 相撲取りさん その他 名士が 駆けつけたのでしょう。美空ひばりさんや、 高峰さんが

それぞれ 別の時間帯に 訪問されました。

何故 わかるのかですが 大相撲の力士等は 家の外で 近所の人間は待ち受けて歓声を上げていたのです。

 私もハイヤーのタイヤが グッとめり込み 車体がゆれ力士が 降りてくるのに出会います。

朝潮でした。何代か前の というより 初代でしょう。若前田という 力士と 一緒でした。

  こうして 私には 湖畔の宿が 忘れられない思い出の曲となりました。

話は 飛びますが

先日 テレビ番組、題名のない音楽会で 服部百音ちゃん(ウ゛ァイオリニスト)が テレビに出ていました。見事な演奏で魅了しています。珍しいのは 演奏前に 背中と お腹を叩く そうで 余計な心配をさせられます。

背中は 誰かに お願いする由 ボン。百音ちゃんも 20才、時は経ちました。

百音ちゃんの ひいおじいさんが 服部良一さん おじいさんが 服部克彦さん お父さんが 服部隆之

さん です。良一さんが克彦さんと テレビに出た時など 子供可愛さのあまり 目が細くなっていたのを思い出します。

いつの日か 服部良一さん克彦さんの 曲を 纒て百音さんが演奏される機会が あるといいですね。飛んで聞きに行ってみたいですね。

 

高峰さんの 家は 澁谷の南平台に有りました。

現在の246道路 は まだ 山の手線の電車の上を 横切って通っていません。

澁谷の 中心は 東横デパート その建物に 電車が 入りこみます。入らない 都電は

今の ハチ公まえで 路上uターンをします。宮益坂から降りてきて また 青山へ 登っていきます。

地下鉄銀座線は 銀座、日本橋のデパート群を結びます。まだ 地下鉄は 銀座線(澁谷浅草間)と丸ノ内線(池袋と御茶ノ水間)が走っているだけの状況でした。東横線は東京と横浜を結び

玉電は二子玉へ。井の頭線は吉祥寺へ向かいます。銀座線の車庫はデパートを抜けて道玄坂方向に ありました。ハチ公から離れた横の方にバスが 番号順に並んでいます。今もそうですが

当時 もっと多くの路線が 有りました。

 映画館は 駅を中心に それぞれ配置されていました。

 一番人気は 父が チャンバラ一本でしたので 東映です。当時 忠臣蔵が 冬のしかも 東映挙げての

作品でした。片岡千恵蔵 市川歌右衛門 月形龍之介 を 中心に 総動員だったのでしょう。

後に 主役で1本を 撮るスターも 東千代之介等まだ 駆け出しでした。その後美空ひばり

も主役を 飾りましたが 劇中必ず 歌が出ていました。勿論歌の前に チャンバラはあります。

 夕刻 道玄坂を 帰ると 映画館の前で 大きい声がします。それは 今から考えると

封切りか スターを 呼んだ 初日だったのでしょう。黒山の人々が 入り口で 歓声を上げています。オーチャ―ド

ホールあたりで 大映だったと思います。それより坂を上ると、テアトル東京が有ります。洋画専門です。

道玄坂 真ん中あたり 道の東側に東宝が有りました。宝田明等々。東映は山の手線の内側にありました。映画館のついでに、東映の東側を進むと

プラネタリウム館があり、その地下に ニュース映画専門ホールがありました。7本くらい ニュースだけをやっているのです。安い料金でした。

面白いでしょう。

 

道玄坂は 登りきるところで 玉電が 道路に合流します。合流注意の 信号合図が有ります。

 一定の場所に来ると 自動的に ブザーが鳴ります。それが面白いのでずっと見ていました。

玉電は 二子玉川の遊園地まで 地上を走ります。三軒茶屋で 分かれて進みます。今は地下に潜ってしまいました。

 一方東横線の 代官山は 若者の町ですが 当時 駅には 何もありません。私は 駅のそばの

プールに行っていました。プールから東横デパートが良く見えました。後に今風の町になるとは

予想だに着きません。

東横線の電車は 代官山を出ると 斜めに傾いて 澁谷のデパートの腹に向かって 進んで行きました。これも今は 地下に潜ってしまいました。デパ地下は 当時から人気でした。

 

澁谷の町に入ると 力(りき)スポーツパレス が有りました。力道山が 活躍したころです。

スポーツパレスが出来る以前は 旧講道館など 使っていました。講道館は加納治五郎以来の

柔道のメッカと言っていいでしょう。この講道館を移して 後楽園ホール

にしたのかも しれません。隣接の後楽園の遊園地もジェットコースターを取り入れたり、進化を続けていきました。後楽園球場も 勿論大賑わいでした。大歓声は今も 昔もというところでしょう。

 

力道山には思い出があります。と いうのは 講演会というのでしょうか 日本橋三越の屋上舞台上で お客を前にして話をしていました。

吉村でしょうか 一緒でした。空手チョップの誕生秘話です。

空手チョップを 武器としていましたが これは 本当に困って出来たのだそうです。

シャープ兄弟という レスラーがいました。力動山と試合中 ぶつかるかなんかして眼球が 飛び出る事が 有ったのだそうです。力動の目が大変です。

片方の手で 眼球を抑えて 引きちぎれ飛んでいかないように 止めたそうです。

 飛び出ても 神経は繋がっていて、目は見えたそうです。

残った 反対の手を 手刀にして 思わず相手を 牽制した。空手チョップ 誕生の一瞬です。

それ以来 空手チョップは 力動(りきどう)の 武器になりました。

その後 事件で 力動が 亡くなった時 とても悲しい思いをしました。まだまだ活躍してほしいし 子供の頃からの

憧れの 大スターであり 戦後日本の シンボルとして 国民の気持ちを 大きく引き上げてくれた 人ですから。

 

 そしてハチ公像まえから、国電(省線ともいう)と言っていましたが 国電を潜って 東側に行くと先ほどのニュース映画館が有りました。

娯楽の デパートを目指したようです。屋上には プラネタリウムが有りました。

 プラネタリウムの中では 綺麗な 夜空を現出させます。南極の空を 映し出した時は 体が斜めの感じがして

うっかり 眠くなってしまうほどです。

今は プラネタリウム館も もうありませんが さくらホールの 一部に 当時の映写機が 移動保管展示されています。さくらホールの入り口の桜(左右)は、当時のままの場所にあります。春は綺麗に咲きます。

映写機はゴジラ ならぬ 黒恐竜の 様です。我々が見ると数十年前を 残してくれて 涙が出てくるほど 嬉しいものです。

 澁谷と言えば スクランブルとハチ公ですね、昔 スクランブルは余り 気にされていません。

只の 交差点 位です。ハチ公は 可愛そうで 涙を誘います。今は茨城県石岡の忠犬タローが仲間入りしました。

澁谷の住まいの 辺りは 豆腐屋さんが 自転車できます。紙芝居屋さんも 独特の声でしゃべります。

 縁日など 楽しいものでした。ラジオで赤胴鈴之助をやり、オテナの塔を覚えています。

 水戸黄門は いつからか忘れていますが 痛快そのものでした。

 

 私共には 今犬がいますが 満18才高齢(どなたか老嬢といっていましたが、そうです)で 何事もママならなくなりました。(この後旅立ちました。人間だと90歳以上のようです。)

犬との スキンシップは おでこをくっつけて 話すことです。

「モモはね 救急センターでは エリートなんだからね。

 一人で 生きていくんだよ。」

犬の 名前は モモです。

黙って 聞いています。

 この会話は ハチ公から貰ったものです。ハチが 主が亡くなり飼い主から離されて

おばさんが ハチに言います。

「ハチお前はね 強いんだから、一人で生きていくんだよ。」

 

ハチは 後で聞くと 秋田犬で12~13年の寿命のようです。これは悲しいです。

大型犬とはいえ もう少し 長く生きてほしい。

 このセリフで じっと下を見ている感じの ワン君モモは可愛いそのものです。

実は 言葉が判らない だけなのですが。

現在の 話をしましたが 当時渋谷に住んでいる時も 雑種の犬が家に 

居りました。 従い 澁谷と ワン君は 切っても切れない関係にあります。

 

 当時の30年頃ですが 澁谷から水道橋まで 10円でした。子供は半額ですから5円。

往復して 子供は10円 だったのです。

 小学校の修学旅行は 日光でした。遠足は鎌倉、七里ガ浜、大仏、楽しい思い出が あります。

澁谷の思い出は 人生でも3番に 入るものです。

澁谷は 初めての都会でした。

エスカレーター も エレベーターも 始めてでした。エスカレーターの

降り方は難しいものでした。 エレベーターは 何か 開いたり閉じたりの ドアー

が 左右交互で 不思議に思いました。エスカレーターで 登りつつ見るものですから

各階でエレベーターの中から 神妙に外を見る人々が 不思議でした。友達が案内してくれて 

デパート内を 歩き回っていろいろ 経験したものです。

この友人は 柔道を講道館に習いに行っていました。或るとき いっしよに講道館に

行きました。私も習いにい行くところでしたが、転居の話と相まって不可能でした。

この友人は家が魚屋さんだったと思います。遠い想い出です。

 地元の酒店も友達の家でした。昔会津から出て来たとのことでした。酒店の友人も

離せば長い物語です。店の場所は西郷の関係が有るのです。薩摩に縁のある土地で

何故会津の人間が開業するのか、会津の人がそういうので、薩摩の人達が仲間で助けたそうです。これはどっちがどうというのではありません。過去にこういうことが有ったという話です。

 

澁谷は 宇田川 澁谷川が 合流した街です。谷であるため 地盤は弱いものです。

高層ビルの発展は 尽きることが有りませんが、リニアや 空中交通が伸びてくると

何時か 澁谷も後れを取ることが 有ります。

リニアで 品川方面が伸びます。すると 澁谷は空中に 目を向けるでしょう。

あくまでも日本一を目指す 気持ちはわかります。2位では 駄目なんです。

 しかし、甘んじて2位を 目指す方法も有ります。

それは 人間との兼ね合いだと思います。

鉄筋は 数十年 寛がせてくれます。

しかし その後を考えてくれと 言っているはずです。

 どうしたらいいのか

スカイツリーと 東京タワーを 考えます

1位を 持って行かれても 大事な事を 残せばいいのです。東京タワーは見事に

土地に 密着しました。

 

今我々は

  負け犬でなく 負け組でもなく 人生を 謳歌出来る 街を 作らねば

ならない そう思います。

 

澁谷よ どこへ行く。

 

澁谷は 澁谷にして 

澁谷は どこにも行かない。

 

フクオカ モリタ

最後まで 読んでいただいて 幸せです。2020.1.4

再読 2021.6.18 チャガルチ編に寄せて