小学生の頃、友達がいなかった。今思えば軽いイジメに合っていた。原因は推測に過ぎないが、当時転校生にもかかわらず自分のことをペラペラ話すおしゃべりマンだったからだ。きっと周りから見たら調子に乗っていたように見えたのだろう。友達がいないことに加え、親が共働きだったこともあり私はいつも一人だった。

 

昼休みは校庭で鬼ごっこをしているクラスメイトを横目に図書室に籠り、ムーミン谷シリーズ、はだしのゲン、星新一、ヘレン・ケラー、アンネフランクの日記、多くの本を読んだ。図書室の先生には「遠藤さんは本の虫ね」と言われ、図書室にある本の名前と場所を完全に網羅し、学校の図書室に飽きると休日は市立図書館や県立図書館に通った。読書中は、時代や国、時には次元をも超えた友達がたくさんできた。ムーミン谷の住民、黒魔女、幽霊、森でひっそり暮らすおじいさん、読書している間は、私は本の世界の中にいて登場人物と友達として話している気分になれた。

図書室を出ると、頭の中では自分自身と対話するようになり一番の親友は私自身だった。いじめは小学校卒業まで続きだんだんと閉鎖的になり口数が減っていったが、頭の中は相変わらずおしゃべりだったのだ。

 

 

こうしてあらためて思い出すと俯瞰することができて同情故の涙が出てくるが、当時は鈍感だったのかただ幼なかっただけなのかあまり深く考えてはいなかった。だが、後遺症として大人になった今でもおしゃべりマンが脳内に鎮座している。仕事や人間関係での悩みは真っ先に自分に相談し、ひらめきや冗談などはまず自分に披露する。人に聞くには馬鹿らしすぎる質問をすることもしょっちゅうだ。

 

「もし犬を飼うことになったら名前は何にする?」「もし何にでもなれるなら、会社員じゃなくて何の職業を選ぶ?」

「もし宇宙に誰でも行けるようになったら、月から地球を見下ろして第一声は何て言いたい?」

_____「ジョン万次郎」「熱波師かラッパー」「ガチのギャラクシー柄ぎゃんかわいい。セルフィーしてインスタ載せよー。」

いつも私らしいくだらない答えが返ってくる。よかった私は私だと、とても安心する。

 

大人になり本を読む機会が減った一方で音楽を聴くことや映画を観ること、SNSの普及によりTwitter(現在のX)で顔も知らない他人のつぶやき(もしかしてこれもう死語?)を見ることが好きになった。さらに大きな変化として、高校や大学、会社で友達ができるようになり、脳内のもう一人の私は大人しくするようになった。と同時に他人が自分に向ける言葉に怯えることも増えてきた。言葉は、その人を表す。性格や育ち、価値観、考え方。特に、作詞や執筆など言葉で「生きている」人の言葉は独特で重みがあり、文字が羅列されているだけのただの言葉でもその意味を深く考えてしまう。今まで自分の言葉しか聞いてこなかった分、何気ない人の言葉に時々敏感になりすぎてしまう。

 

「言葉は時にナイフになる。」「一度言った言葉はもう取り消せない。」こんな台詞をよく聞く。意味はそのままで、とてもわかりやすい表現である。小学校の時、仕事の合間をぬって運動会に来てくれた父親の前でクラスメイトが「もえちゃんのお父さん、おじいちゃんみたい」とみんなに聞こえる声でいじわるを言われ笑いものにされたことがある。私は恥ずかしいというより、疲れている中せっかく来てくれたのにそんなことを言われた父親が可哀想で堪らなくなりわんわん泣いた。そんな私を見て父親は自虐ネタとして笑っていたが(笑)当時小学校2年生、今でも喉奥が痛くなり目頭が熱くなる。とても苦い思い出。それ以降、学校行事に父親は一切呼ばなくなった。さて一方で、いじわるを言った彼女は県内で最も偏差値の高い高校に進み、国立文系に進学したと聞いた。おい、お前のその言葉のナイフの先っちょ、ちゃんとカバーして持ち歩けよ。

 

言葉は心身の成長とともに変化し、またその人自身を成長させると感じる。私も自分の将来や親の老後に怯えて昔より自分の考えを主張することが増え、家族や友人と衝突する機会が多くなったと感じる。言葉のナイフを向けてしまい、悔いることも幾度となくある。その度に、今の言葉はもう一生使わないと心に誓う。こうして私のボキャブラリーは成長していく。

 

言葉はナイフにもなるが、時に励みや宝になる。母親が仕送りの段ボールに入れてくれた短い中にぎっしり愛の詰まった手紙、がんで入院していた父親がぽつりと言った私の作ったごはんがまた食べたいの一言、好きなアーティストが歌った将来の不安を掻き消してくれたワンフレーズ、脱サラして宇宙飛行士になったアニメの主人公の台詞、3年前に別れた恋人が言ってくれた私の好きなところ。私は今まで人が紡いだ様々な言葉に何回も救われた。今の私の感性は人の言葉で作られている。冷たく鋭い刃で向けられた言葉が、噛み砕くとなんとも温かく心地のよい贈り物であった、ということもある。これだから、言葉は好きなんだ。裏切るときもあるけど、その分響くから。自分の為にも人の為にも、言葉を紡ぎ続けられる人でありたい。生きていると、間違えてしまうこともあるだろう。間違えてもいいが取り消すな。もう一生間違えなように刻め。都度謝って、向けてしまったナイフの倍のプレゼントをあげよう。

 

日本語だけじゃない、英語も宇宙語も手話も点字も素敵な言葉だ。この世界に生まれて、言葉が使えて誰かにもらったり与えたりすることができて良かった。頭の中も本の中も素敵な世界だけれども、人と対話し言葉で生きていくのも悪くないと思うんだ。

 

 

バカにされてないか?笑われてないか?間違ってないか?これでいいのかな?

なんて悩んでる俺こそが何より 痛いくらい本当で本物の俺だ

(六文銭/MOROHA)